3-4 一区切り

「あらあら……まあ、災難な……」

「にゃー。臭いにゃあ、なんつーか、石油系の匂いっぽいにゃー」

 莉央莉恵が白い頬に手を当て、猫から人間形態に戻った伽々羅が鼻をつまんでいた。

 

 骨蝕が完全に消滅したのを確かめた後、莉央莉恵が空間異化を解除、元の場所、冴のアジトの庭に転移していた。

 冴は前もって教えられていた通りに、元の人間の姿――大柄な体を黒Tシャツとアーミーパンツに包んだごく普通の高校生の姿に戻り、希亜世羅もまた妙羽の姿、高校の制服を着たままの女子高生ルックに戻る。

 莉央莉恵も、一見女性教師風のキッチリしたスーツに眼鏡の妙齢女性に変身していたが、彼女の目の前でじたばたしている棘山には、それを鑑賞する余裕もなかった。

「ううううう……」

 ごつい見た目とは裏腹に情けない声で呻く彼は、相変わらず顔に目立つ傷のある若い男性の姿のままだ。

 問題は、彼の全身にべったり振りかかった、奇怪な匂いの液体にある。

 

「あらー。これ、もしかして骨蝕さんの血かぁ」

 すたすたと近付いてきた希亜世羅は、強烈な異臭を放つ液体の正体にすぐ気付いた。

 もぞもぞと不快気に体をよじる棘山の頭頂部近くから後頭部、そして側頭部に、ラベンダー色とクリーム色の液体がべったりと滴っている。一部はごつい肩の上にも落ちていた。

 そして、深緑色のTシャツに覆われた背中一面に、まるで液体の上に転んだような塩梅で、べったりとその液体が広がっていた。

 その液体――骨蝕の血液自体は、まるでアイスクリームにでもありそうなポップな色合いである。なのに、ここまで嫌悪感を誘うのは、べっちゃりした粘度の高そうな見た目と、あまり生き物由来のそれとは思えないような強烈な異臭のせいであろう。

 

「大丈夫か? 肌が痛いか?」

 冴が近付いて、真剣な声で尋ねた。

「い、いえ、痛い訳ではないのですが……痒いような気はします……」

 本当は痛みも感じているのではないかというような表情で、棘山はそう答えた。

 

「ねえ。私たちのことは気にしなくていいから、棘山さんにお風呂に入ってきてもらったら? 死ぬ間際の血なんて、どんな悪影響があるかわかんないし」

 希亜世羅が、くいくいと冴の手を引いて提案した。

 冴はうなずく。

 退魔師などという職業に就いている彼は、そういったものが場合によってはどれだけ霊的悪影響を及ぼすか、経験的に知っていた。

 骨蝕の下半身の蛇を斬り飛ばした際に、ちょうど血の塊が飛び散った真下に、棘山は居合わせてしまった。

 目の前の壮絶な戦いに唖然としていて、反応が遅れ、まともに浴びてしまったのである。戦闘型の式神を自認する彼にとっては、屈辱だ。

 

「棘山、命令だ。すぐに風呂に入って、徹底的に洗い流してこい。気持ち悪さと匂いがなくなるまでな。服は捨てろ。あとで新しいのを買ってやるから」

 てきぱきと指示する冴に、棘山は頭を下げ、次いで気づかわしさと戸惑いの入り交じった目で、希亜世羅と伽々羅、莉央莉恵を見た。

「大丈夫だ。この人たちは、もう味方だ。詳しいことはお前が風呂から上がったら、改めて説明してやる。とにかく今は風呂、入れ」

「時間は気にしなくていいから、とにかく気のすむまで頭と体洗いなよー。食べるものとか、適当に用意しとくから、細かいことは気にしないで」

 希亜世羅がそう勧めると、棘山は戸惑いながらも感謝の意を込めて頭を下げた。

 すでに、時刻は夕方。

 陽が長くなってきた時期だが、それでも夕暮れと夕食の時間は近付く。本来なら冴の下仕えの棘山があれこれしなくてはならないが、気が付いたら味方になっていたらしい邪神お嬢様がこう仰るのなら、お任せしてもいいのだろう。主が騙されている様子でもないし。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 棘山が、皮がこそげ落ちるのではないかと思うほどに徹底的に全身を洗浄して、ようやく風呂から上がって来たのが一時間以上経ってから。二重三重に洗って洗って、ようやく匂いが消えた。

 万が一を考えて浴室内全体をざっとシャワーで洗い流して、部屋着に着替えて、棘山が居間に戻ると、いつの間にか人数分の食事が、座卓の上で湯気を立てていた。来る途中で匂いで分かった、塩味とニンニクの効いた大粒から揚げ大盛りと、白身魚とたけのこのすまし汁、焼いた油揚げをまぶしたほうれん草のお浸しと、炊き立ての白飯。

 

「おう、希亜世羅がそろそろ来る頃だって言ってたら、本当に来たな。ま、座って食べろ」

 いつものように上座に着席した主の冴が、上機嫌で手招きした。

 いつもと違うのは、彼の隣に希亜世羅が座っていることと、同じ座卓に伽々羅と莉央莉恵が着座していることだ。

 

 あまりに当たり前のように馴染んでいる邪神一行? に戸惑いながらも棘山はビールを注いでもらい、彼以外はノンアルコールビールで乾杯した。

 冴から希亜世羅を紹介してもらった時には、棘山は人生で何度あるかというくらいに肝を潰した。

 

 完全に隔てられた時空の彼方の混沌からやってきた女神。

 無数の宇宙が生まれる異なるフィールドの創造主。

 そして、お気に入りの宇宙を伴って、その宇宙で我らの宇宙を喰らい尽くそうとした、想像を絶する規模の侵略者。

 

 外国の小説くらいでしかついぞお目にかかったことのないようなその「存在」を前に、驚き過ぎた棘山は実感を感じ取れない。

 ……正直、そういう気配は感じる。

 膨大な量の、神気に似たようなもの。

 だが、この世界でよく出くわす「彼ら」とは、決定的に違う「何か」を感じる存在。

 

 それは生まれ変わった主・冴や、希亜世羅の従者だという二人、伽々羅や莉央莉恵にも通じるものを感じる。

 伽々羅も莉央莉恵も、希亜世羅の「神使」だという。

 この二人の場合、何か他の生き物から希亜世羅に見出され「昇格」したのではなく、そもそも希亜世羅を補佐する「神使」として最初から創造された存在なのだ。

 翻って冴は、この宇宙で生まれた人間から、希亜世羅の力によって彼女の神使に「転身」したのだという。

 それもこれも、あの骨蝕の魔手から、冴を救い出すため。

 冴が望めば人間にも戻れるが、冴自身が、神使として希亜世羅の側にいることを願った。

 

「コイツが二度と悪いことしねえようにな。俺が側にいて尻叩いてやらなきゃな」

 

 妙に満足そうな顔で、冴はそんな風に言った。

 

「どう? 棘山さん。から揚げ口に合った?」

 無邪気な様子で、希亜世羅がそう尋ねてきた。

「ええ、この味好みですよ。あなたがお作りになられたのですか」

 外見ははるか年下の少女だが、格としては比べ物にならないくらいに上の存在が相手では、さしもの棘山も言葉が丁寧になる――どうも、主である冴とデキてるぽいし。

「良かったー。うん、一応神様だからね。宇宙創造するのに比べたら、から揚げ創造するのくらいは簡単だわー。あ、棘山さんにあげようか、から揚げでできた宇宙」

「そこまでは望みませんが、ビールでできた海のある星とかは欲しいかも知れません」

 真顔で答えると、彼女はきゃらきゃらと笑った。

 

 話してみると、希亜世羅は無邪気で朗らかで子供のようで、愛すべき女神だった。

 多分、いささか無邪気過ぎて、分別のつかない子供がおもちゃを欲しがるように、この宇宙を欲しがってしまったのだろうなと、棘山は判断する。

 ……まあ、この惑星でも、宇宙を想像したとされているような神――と現時点で推定されている存在――は、性格にいささか問題があったりするとされているが、あちらでも似たようなものなのかも知れない。

 

「ビールが欲しいなら早く言うにゃ。そりそり、注いでやるにゃ。わたいの酒が飲めないとは言わせないにゃー」

 こちらもいつの間にかアルコール含有のビールに乗り換えたのか、伽々羅が無遠慮に棘山のジョッキにビールを注ぐ。

 油断ならない戦闘力を持つ宇宙猫・伽々羅は、まさに猫のように気まぐれではあるが、同時に陽気で人懐こかった。

 最初こそ隣に座られるのに緊張したものの、少女に見える無邪気な見た目と愛くるしい仕草は、あっという間に棘山の警戒心を解かせるのに十分だった。

 

「……で、先ほどのお話の続きですけどね。あなた方が霊気と呼んでいるものは、素粒子の一種である『霊子』の流れだということまではお分かりいただけましたわね? ……よろしい。一方で、我らの属する世界には『夢子』『魔子』『共鳴子』というものが存在し、これは『かくあるべし』と規定する意思に反応します。冴さんの新たな力は『霊子』と『魔子』を互換させたもので……」

 興味深い話を、丁寧に繰り返して教えてくれるのは、莉央莉恵だった。

 彼女の話で、棘山は、自分が無意識のうちに操っていたり守っていたりするものの正体が「霊子」という未知の素粒子だということを知った。

 最初のうちはちんぷんかんぷんではあった。

 多分、相当間抜けな質問をしたと思うのだが、莉央莉恵は女性教諭っぽい見た目の通り、初歩も分かっていない棘山に辛抱強く知識を与えてくれた。から揚げの皿があらかた空になる頃には、棘山は霊子に関する基本的な知識を蓄えていた。

 

「そういえば……その、希亜世羅さんは、その、あっちの世界の神様なんでしょう?」

 棘山は、ふと思いついたことを質問した。

「その……ずっと、こっちにいることは……まずかったりしませんか?」

 主との関係についても、心配はそこだった。

 希亜世羅が冴と顔を見合せてうなずき合った。

 

「……棘山さんにも、ちゃんと話しておかなくちゃいけない」

 まっすぐ棘山の目を見ながら、希亜世羅は声を張り上げた。

「私の秘密。できれば、あなたにも協力してほしいことがある」

 

 棘山は目を見開き。

 次いで、主と目を合わせた。