「あれ、市役所ってこんな感じだったかな……?」
百合子は何度か来たことがある市庁舎の構造に、記憶との食い違いを感じて首を傾げる。
奇怪なモノを始末すると、後は人の声もしない静まり返った、がらんとした建物が残る。
戦いの痕跡も生々しい市庁舎の内部を見回し、百合子はぞわぞわした違和感を拭えない。
「……多分、あのあやかし山伏が内部に何か細工をしたんだな。空間を歪めた痕跡がある」
真砂が、宙に浮きながら、あっさり看破する。
「内部はだいぶ広くなっているんじゃないかな? 各階や各ブロックのつながりもおかしくしてあるみたいだ。当然だね、ここを邪神信仰の本拠にするつもりなんだからさ」
真砂が殊更揶揄するように評すると、天名がうなずく。
「高月城ほどではないが、それに近いものに変化させているということだ。もう人間の世界の、どこの自治体にもある古びた庁舎ではないということだ。内部に何を呼んで詰め込んであるのか、わかったものではないぞ」
天名の苦い推測に、百合子は次第に顔が青ざめていくのを感じる。
「……じゃあ、元々内部に詰めていた、市の職員の人たちは?」
百合子の元同級生も、市役所勤務が複数いる。
彼女たちはどうしたのか。
「今の時点では不明だ。モノに乗り移られて人間でない何かに変化させられている、などということを、免れていたらかなり幸運だな」
百合子は天名の絶望的な推測を聞いて、足元の床が消え失せて、底のない穴に転がり落ちるような悪寒を覚える。
さきほど戦った、あの奇怪なモノたちの異様な姿が思い浮かぶ。
友人たちがあんな姿にされているかも知れない……。
「探しに……職員の人たちをまず探し出して救出しましょう。彼らを安全な場所に匿ったら、戻って来てあやかし山伏を」
熱を帯びた口調で、百合子は二人の説得を試みる。
「そうだね。職員の人たちの無事を祈るか」
真砂があっさりうなずく。
「外部との連絡に使うために、人間をそのまま残していることも考えられる。とりあえず……」
天名が言いかけ、ふと眉をひそめる。
「? 天名さん?」
「おい、あの子供は何者だ」
天名の視線の先を辿った百合子も真砂もぎょっとする。
廊下に続く出入口の脇に、小さな影が、ちょこんと顔を出している。
人間の子供だ。
まだごく幼く見える。
赤ん坊の雰囲気を残す、三歳程度であろう。
チェックのハーフパンツの男児が、じっとこちらを見ているのだ。
「あっ、君!! どこの子!?」
百合子は咄嗟に声をかける。
こんな時間にこんなところに幼児がいるのは奇妙に思えたが、しかし、市職員の誰かが見る者の手配をつけることができずに、連れて来たのかも知れないと思い直す。
その幼児は、百合子の声を聴くや否や、身を翻して、奥の廊下に逃げ出す。
ぱたぱたよちよちした、子供の柔らかい靴の足音。
「……こんなところ、こんな時間に、あんな小さい子供ねえ?」
真砂が皮肉げに笑うのが、百合子には奇妙に思えた。
「……職員の誰かのお子さんなんじゃ? あの子が無事なら、あの子を連れて来た職員の誰かも」
百合子が息せき切って主張すると、天名が腕組みをする。
「……百合子。鵜殿に殺された弟君のことは、あまりよく覚えていないと言っていたな?」
唐突にそんなことを言われて、百合子はきょとんとする。
「え……ああ、はい、両親が、私のトラウマになると気の毒だからと、弟の写真とか持ち物とか、私の目につかないところに隠していたそうなので……あの、それが……」
ふと。
百合子は奇妙さに息が詰まるように感じる。
自分の目の前で鵜殿の凶刃にかかった弟、春希(はるき)は、わずか三歳だったはず。
あの子供も三歳くらいに見える。
百合子の弟の亡くなった時の年ごろだ。
「私も、そんなによく覚えている訳ではないけどね。似てるなあ。似てると思わないか、天名?」
真砂が、恐ろしい含みのある声で、相棒に同意を求める。
百合子は一瞬意味が取れず、天名を振り返り、次いで真砂の顔をまじまじと見つめる。
「真砂さん? 天名さん? あの子が、私の弟に似てるっていうこと……えっ」
百合子は、その言葉の意味を理解しようとする。
二十年前に鵜殿に惨殺された弟に、あの急に姿を見せた子供が似ている、ということか。
どういう意味なのか。
百合子のたどたどしい記憶でも、春希はすっかりバラバラにされて、万が一にも生きているとは考えられない。
もし生きていたとしても、二十年前のままの姿であるはずがない。
すると。
「幽霊? ……私の弟の、幽霊?」
百合子はひたすら視線を真砂と天名の間にさまよわせる。
どういうことなんだろう。
人外が存在するというのだから、もとは生きていた人間であるところの幽霊だって存在していそうなものだが、しかし、何故この状況で、二十年前の幽霊なのか?
「……行こう。本当に百合子の弟くん本人なのか、ただの悪質な嫌がらせかくらいは確認したい」
真砂が、宙を滑って奥の廊下に向かう。
百合子は、手の中に傾空を強く掴んで、すぐ後を追う。
殿に、天名が周囲を警戒しながら続く。
「……春希?」
もう二十年も呼んでいないその名前を、百合子は煌々と明るい廊下で口にする。
いた。
廊下の途中、エレベーターホールのあるあたりで、彼は突っ立って……
何かがおかしい。
百合子は、視界に入るそのうねうねしたものに目を凝らし。
凍り付く。
床から壁、天井に至るまでびっしり覆っている、小さくて柔らかそうなもの。
それは、何か大きな刃物のようなもので断ち切られた、幼児のふっくりした腕と足だ。
それが無数に。
まるでトカゲの群れのように、蠢きながら突進してきたのだ。