「宇留間さん、そのペンダント、素敵ですね」
会社のトイレ、洗面台で、不意に声をかけられて、和可菜は顔を上げた。
隣で和可菜をのぞきこんでいるのが、事務の女性だ。
セミロングの髪で小柄な、愛らしい若手である。
「あ……ああ、これ?」
和可菜は、自分の胸元に手をやった。
首から下がって揺れているのは、マット加工のガラス細工と思しい、虹色の羽の形のペンダントである。
それを身に着けている、くっきりめの顔立ちの眼鏡の女性が、鏡の中から和可菜を見返す。
端正に整えられた黒髪は、バレッタでまとめられている。
ピンストライプのダークグレーのスーツは、それが好きな向きにはたまらない曲線を描いている、らしい。
「大したことない安物よ。雑貨屋で買ったんだもの」
明白なウソをつくのは気が引けないでもないが、本当のことをこの人畜無害な女性に話してどうになるわけでなく。
「でもいい感じ。神秘的ですよね。どこの雑貨屋さんです?」
近所のハンドメイドアクセサリーも置いてある雑貨屋の名前を教え、和可菜は会話を切り上げ、編集部に戻った。
八割男性の占める編集部では、さきほどの事務の女性のように、和可菜のアクセサリーを詮索してくるような可愛らしい者はいない。
電話の声、キーボードを叩く音。
時折、何気ないやりとりが飛び交うくらいの、昼日中の忙しい編集者たち。
和可菜は、自分の席の椅子に収まると、ふうっと息をついて、胸元を見下ろした。
……一見、何の変哲もないペンダント。
高級品という訳でもないように思える、くらいだが。
和可菜はいやでも思い出す。
昨夜の、あの異様な体験。
現実に悪夢が割り込んできた。
あのバケモノたちがまとっていた悪臭を、今でも生々しく思い出せる。
たとえそうでも、もしあのまま自宅に帰りついて一晩寝ていれば、あれは悪夢だったと結論付けたであろう。
現実と認めるには、あまりに非常識。
しかし。
和可菜の手には、あの羽が残されていた。
夜遅くなるまで、和可菜はその羽を前に悩んだ。
それがあるということは、あの出来事もまた、現実だったと認めるしかないわけで。
羽をいじくっているうちに、いきなり、あのきらきら光る、不思議な形の銃に変じた時は、さすがに頭がどこかに飛んでいくかと思えた。
あの妙な異界も、あのバケモノも、この銃に変じる羽も……本物。
その上、さらに。
その羽は、持ち歩くべきかどうか悩む和可菜の意思に応えるかのように、小ぶりなアクセサリーの形に変じたのだ。
結局、悩んだ挙句、和可菜はそれを首にかけて出勤することにした。
――また、あんなことがないとは、限らないのだ。
和可菜は周囲に不審がられないように、仕事に集中する……ふりだけでもした。
開いたファイルには、担当作家の新作である、異世界に飛ばされた少女が遭遇する、恐ろしい出来事が記されている。
プロットはなかなかできがいい。
しかし、自分がこの幻想文学以上に異様な経験をした今となっては、なんだか色あせて見えてくる。
「宇留間くん」
編集長に呼びつけられて、和可菜ははっと顔を上げた。
今の今までひたっていた感傷を振り捨てて、きびきびしたいつもの足取りで、編集長のデスクの前に出る。
「……ちょっと……すごいことになった」
急にそういわれて、和可菜はきょとんとした。
このベテランでやりての編集長が歯切れ悪いのは珍しい。
「今すぐ、応接室に行ってくれ」
「え? 来客ですか? どなたです?」
頭の中でスケジュール帳をめくるが、本日打ち合わせの作家はいない。
何があったのだろう。
「……兼西零《かねにしれい》。知ってるだろう」
その名前が口にされたとき、和可菜は思わずまじまじと目を見開いた。
◇ ◆ ◇
兼西零《かねにしれい》という若き男性作家については、日本中の人間がおそらく知っている。
特に読書を趣味にしていない人間でも、テレビでネットで、頻繁に取り上げられるその名前くらいは知っているだろう。
日本の誇る、幻想文学のホープ。
幻想文学というジャンルを賦活させた、若き天才。
最近、映画にもなった代表作は、海外でも封切りされた。
大学在学中にデビューして、現在まだ二十四歳だったはず。
こんな弱小出版社には似つかわしくないビッグネームが、まさに、この扉の向こうにいる。
和可菜は、扉の前で一瞬逡巡し。
次いで、思い切って、その応接室の扉を開けた。
「お待たせいたしました、兼西先生。宇留間です」
丁寧に一礼して顔を上げ。
和可菜は思わず息をのんだ。
美しい。
うわさには聞いていたが、兼西零の美貌に、和可菜は圧倒される思いだった。
取り立ててしゃれた格好をしているわけでもないのに、兼西零の魅力は周囲を薙ぎ払うばかりだ。
「抜けるような白い肌」というのが、あながち誇張した表現でもないのだと、彼を見ていると感じる。
つやつやした黒髪に、涼し気な眉、愛好家の好むドールもかくやという端正な目鼻立ち。
兼西零が騒がれるのは、必ずしもその圧倒的な文才のせいばかりではない。
その作り物でもここまではというほどの美貌のせいもあるのだ。
ファンに女性が圧倒的に多いのは、その文体が艶麗優美なせいばかりではないだろう。
「はじめまして。あなたが宇留間さんですね」
零が立ち上がって、握手を求めてきた。
応じると手指に伝わる、ひんやりと滑らかな感触。
「兼西先生。どういったご用件でしょうか?」
応接間のささやかなソファに身を沈め、和可菜は肝心の要件を訊きだそうとした。
こんな弱小出版社の、しかも名前が知れているわけでもない一介の編集者に、この若き大作家が何の用があるのか。
「羽。ちゃんと持ってくれているんですね。良かった」
和可菜の胸元を見て放たれたその言葉に、彼女は一瞬理解が追い付かなかった。
「ええっと……」
「ああ、隠さないでもいいですよ。わかってるんです。《《昨日》》、《《あなたがどんな目にあったのかもね》》」
すうっと、脳から血の気が失せて、目の前が暗くなる思いがした。
どういうことだ。
なんで、この人が昨日のことを知っているのだ。
だが、和可菜のわずかに残された理性が、存在を主張した。
作家なんていう生き物は、ときおり自分の世界にのめりこみすぎるもの。
まして、二十四なんていう若者だったらなおさらだ。
名声は、性格を矯正してはくれないのである。
「先生、新作の売り込みでしょうか、でしたら――」
「これは小説の話じゃない。その青ざめたお顔だと、わかってますよね?」
ニンマリと。
零が微笑んだ。
美しいだけに、華麗な文様の毒蛇のような危険性を感じさせる。
「はっきり申しましょうか。あなたは、昨日、光る羽を拾ったはずだ。そして、この世のものでない生き物にも遭ったはず。そのことについて、あなたに申し上げたいことがある」
和可菜は助けを求めるように、後ろ手でソファをまさぐった。
もちろん、この部屋には、自分とこの《《本当のところ正体不明の男しかいない》》。