8 猫と偽善者

 からり、と軽い音がして、校長室の引き戸が開いた。

 

 帰り支度をしていた糸井正平(いといしょうへい)校長は、ふと、その音に顔を上げた。

 

「おや、どなたかな?」

 

 いつものように温和そのものの声をかけても、それに応える者はなく……

 

 なんだろう?

 生徒のいたずらだろうか?

 

 いらっとした糸井だったが、それを表に出すことはない。

 感情のままに喚いて、「穏健で有能な校長」という看板に傷をつけることなど、愚の骨頂だ。

 特に、今は注意しなければいけない時期だ。

 警察が周囲で動いている。

 ちょっとしたことでも、警察の注意を引きつけるようなことは慎まねばならない。

 

「ん~どうしたんだね、用があるなら……」

 

 面倒だったが、一応確かめに行こうとしたその時。

 

「にゃーん」

 

 足元を見て、驚いた。

 真っ黒な、猫がいたからだ。

 

 一瞬、目を疑う。

 どうやって猫が、こんな場所まで入ってきたのだろう?

 

 と。

 

「校長先生、あなた、市原愛実さんを殺したにゃあ?」

 

 突然、聞き覚えのない若い男の声がした。

 ぎょっとして周囲を見回し、改めてその猫を見下ろして、まさかと改めて自分を疑う。

 猫が、しゃべるなど。

 

「校長先生、評判のいい校長先生。でも、それは表向き。あなたの正体は、血に飢えた捕食者にゃあ。市原さんの弱みに付け込んで、食い物にしようとしたにゃあ。でも、上手くいかなかったんにゃよね?」

 

 だから。

 殺したにゃあ?

 

 糸井校長の心臓が、激しく早鐘を打った。

 

 なんだ、この喋る猫は。

 なんで、自分と佐藤教諭しか知らないことをしっているのだ。

 

 愕然として立ち尽くす糸井の前で身を翻し、黒猫は風のように扉の隙間から表の廊下に走り出て、姿を消した。

 

 一瞬、呆然としていた糸井だが、すぐに追わなければと気付く。

 猫が喋る訳がない。

 誰かが首輪に拡声器でも仕掛けていたのだろう。

 ――すると。

 誰かが、あの事件の真相を知っているのだ。

 

 いてもたってもいられなくなり、糸井が廊下に走り出た時。

 

「こ、校長!!」

 

 真っ青な顔の佐藤教諭に呼び止められた。

 嫌な、予感がした。

 

「校長……まずいです。どういう訳だか、平坂が例のことを知っています」

 

 ぎょっとした。

 平坂倫太郎。

 ごく温和な、日本史担当の教諭だ。

 しかし、温和だからといって油断できないのは、いやというほど、よくわかっている。

 ――自分のような人間が「温和」と呼ばれるのだから。

 猫をかぶることなど、この世で屈指のたやすいことだ。

 

「どういうことなんだ!! 何故ばれた!!!」

 

 人気のない廊下、声を低めて、糸井は唸った。

 

「それが、私にもさっぱり……しかし、どういう訳だか、『市原さんのご遺体は、T山の山中ですね』と……」

 

 ざっと、自分の顔から血の気が引く音がしたように、糸井は感じられた。

 

「……校庭で待っていると言われたのですが……どうします」

 

 佐藤は分厚い唇をわななかせて糸井の顔をうかがった。

 

「……どういうつもりだか知らないが、行くしかないだろう。もしもの時は……わかっているな?」

 

「……はい」

 

 あの市原とかいう生徒を始末した時より、よほどたやすい調子で、佐藤はそう口にした。

 そうだ、今更、だ。

 

 下校時刻を告げる放送は、とっくに流されていて、運動部は入学初日では流石に練習はない。

 職員室の人気もまばら。

 糸井と佐藤は、連れ立って校庭へ出た。

 

 そこで展開されていた「それ」に、すでに無辜の人間の返り血を浴びている二人は、唖然とするしかなかった。