からり、と軽い音がして、校長室の引き戸が開いた。
帰り支度をしていた糸井正平(いといしょうへい)校長は、ふと、その音に顔を上げた。
「おや、どなたかな?」
いつものように温和そのものの声をかけても、それに応える者はなく……
なんだろう?
生徒のいたずらだろうか?
いらっとした糸井だったが、それを表に出すことはない。
感情のままに喚いて、「穏健で有能な校長」という看板に傷をつけることなど、愚の骨頂だ。
特に、今は注意しなければいけない時期だ。
警察が周囲で動いている。
ちょっとしたことでも、警察の注意を引きつけるようなことは慎まねばならない。
「ん~どうしたんだね、用があるなら……」
面倒だったが、一応確かめに行こうとしたその時。
「にゃーん」
足元を見て、驚いた。
真っ黒な、猫がいたからだ。
一瞬、目を疑う。
どうやって猫が、こんな場所まで入ってきたのだろう?
と。
「校長先生、あなた、市原愛実さんを殺したにゃあ?」
突然、聞き覚えのない若い男の声がした。
ぎょっとして周囲を見回し、改めてその猫を見下ろして、まさかと改めて自分を疑う。
猫が、しゃべるなど。
「校長先生、評判のいい校長先生。でも、それは表向き。あなたの正体は、血に飢えた捕食者にゃあ。市原さんの弱みに付け込んで、食い物にしようとしたにゃあ。でも、上手くいかなかったんにゃよね?」
だから。
殺したにゃあ?
糸井校長の心臓が、激しく早鐘を打った。
なんだ、この喋る猫は。
なんで、自分と佐藤教諭しか知らないことをしっているのだ。
愕然として立ち尽くす糸井の前で身を翻し、黒猫は風のように扉の隙間から表の廊下に走り出て、姿を消した。
一瞬、呆然としていた糸井だが、すぐに追わなければと気付く。
猫が喋る訳がない。
誰かが首輪に拡声器でも仕掛けていたのだろう。
――すると。
誰かが、あの事件の真相を知っているのだ。
いてもたってもいられなくなり、糸井が廊下に走り出た時。
「こ、校長!!」
真っ青な顔の佐藤教諭に呼び止められた。
嫌な、予感がした。
「校長……まずいです。どういう訳だか、平坂が例のことを知っています」
ぎょっとした。
平坂倫太郎。
ごく温和な、日本史担当の教諭だ。
しかし、温和だからといって油断できないのは、いやというほど、よくわかっている。
――自分のような人間が「温和」と呼ばれるのだから。
猫をかぶることなど、この世で屈指のたやすいことだ。
「どういうことなんだ!! 何故ばれた!!!」
人気のない廊下、声を低めて、糸井は唸った。
「それが、私にもさっぱり……しかし、どういう訳だか、『市原さんのご遺体は、T山の山中ですね』と……」
ざっと、自分の顔から血の気が引く音がしたように、糸井は感じられた。
「……校庭で待っていると言われたのですが……どうします」
佐藤は分厚い唇をわななかせて糸井の顔をうかがった。
「……どういうつもりだか知らないが、行くしかないだろう。もしもの時は……わかっているな?」
「……はい」
あの市原とかいう生徒を始末した時より、よほどたやすい調子で、佐藤はそう口にした。
そうだ、今更、だ。
下校時刻を告げる放送は、とっくに流されていて、運動部は入学初日では流石に練習はない。
職員室の人気もまばら。
糸井と佐藤は、連れ立って校庭へ出た。
そこで展開されていた「それ」に、すでに無辜の人間の返り血を浴びている二人は、唖然とするしかなかった。