1-1 死の記憶と白い龍

 腕を掴まれ、思い切り引かれた。

 鷲みたいに曲げた指が、筋肉に食い込む痛みを感じる間もなく、胸に衝撃を感じた。

 何だか、冷たい――

 自分の胸板の真ん中左寄りから、チープな造りのサバイバルナイフが嘘みたいな角度で突き出しているのを最後に、視界が暗転した。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 はっと目が覚める。

 オディラギアスはしばらく、見慣れぬベッドの天蓋を奇妙な思いで眺めていた。

 ――ここは任地で、私は追い払われた王子だ。

 そんな認識が戻ってきて、オディラギアスはようやくふわふわ漂っていた自我が、体の中にしっかと座るのを感じた。

 ふと、横たわったまま腕を上げ――苦笑する。

 見慣れた、龍震族《りゅうしんぞく》特有のごつい鱗に覆われたその腕は、新雪のような純白だ。

 目にも鮮やかな、この色のお陰で自分に起こった数々のことを思い返し、オディラギアスの胸に昏い影が差したが、努めてそれを追い払う。

 今は自己憐憫に浸る時期ではない。

 他にやることがあるではないか。

 そういえば、今日のスケジュールは……

 思い返し、オディラギアスはあることに思い至る。

 

「オディラギアス様?」

 

 続き部屋に続く扉がノックされた。聞き慣れた声。

 

「お目覚めでおられますか? 侍女より、うなされているようだ、との報告が……」

 

「ああ、今起きたところだ。大儀ない。すぐ支度する。例の人間族の商人は、まだ来ておらぬのだろう?」

 

 声を張り上げると、エンジンが少しずつかかり、憂いが遠くなっていく気がした。

 自分は、このスフェイバの太守。

 やることはたんまりあるのだ。

 

「はい、まだにございます。しかし、約束のお時間までさほどございませんので」

 

「分かった。会合の準備は任せるぞ」

 

「は」

 

 寝室のドアの前から気配が遠ざかったのを感じて、オディラギアスは天蓋付きベッドから抜け出した。

 陽の光で暖められた石の匂いが、この城塞に漂っている。

 戦いだ――状況との。

 

 ふと、鏡の前に立つ。

 大きな姿見の中には、巨躯の多い龍震族の中でも特に大柄と言える、白い体色が珍しい龍震族の若者が映っている。長い白髪、やや垂れ目気味の甘いが男らしいマスク。

 龍震族というものが、この世界の原初神の一柱、世界龍バイドレルにより創造された種族というのは広く知られる。故に、その肉体は、龍と人間が混じり合ったような形なのだ。

 頭部に曲がりくねった威厳ある角、肉体は逞しく、要所が硬い鱗に覆われている。龍の尻尾があり、手足の先は龍そのもので、他の種族から比べると、籠手や脚甲を着けているように見える。

 龍震族の中で特に注目されるのは、その鱗の色。

 鱗の色は髪や目の色にも影響を与え――そして、その個体の力の傾向にも関係すると言われている。

 

 オディラギアスの鱗の色は……「純白」だった。

 

「入りますぜ、オディラギアス様。おや、どうしたんです?」

 

 従僕の蛇魅族《じゃみぞく》の若者、ゼーベルが入って来た。

 鏡の前で苦笑する主を見つけ、怪訝な顔をする。その緋色の蛇の下半身がうねった。

 

「いや、な」

 

 ゼーベルに着替えを手伝わせながら、オディラギアスは苦笑を濃くする。

 

「相変わらず、私の鱗は真っ白だなと思ってな。年々、白さが増していく気がする」

 

 後ろに撫でつけた、やはり真っ白な長髪を、籠手で覆われたような指でかき上げる。

 

「いやあ。やっぱり、俺が蛇魅族だからかも知れませんが、オディラギアス様の鱗が白いからって、弱いなんて思えませんぜ? 体格だって、他の御兄弟より、むしろ立派じゃねえですか」

 

 不満げに、ゼーベルはそう口にした。

 そして周囲に自分たち以外に人気《ひとけ》がないのを確認してから、

 

「……龍震族の方々の、鱗の色に関する思い込みって、アレじゃないですか。俺らが元いた世界で言うなら、血液型占い的なモンじゃねえのかなあ……」

 

 ダチにね、誰に訊いてもB型かO型としか信じてもらえないのに、バッチリA型な奴がいましたぜ、とゼーベルが呟き、オディラギアスの腰布をまとめる飾りベルトを締めると、彼は更に苦笑する。

 

「まさそういうものかも知れないな……まさにだ。科学的に何の根拠もない、と言われていたが、向こうでは大勢が呼吸するように信じて、それを日常会話にしていただろう? 少なくとも、私たちの住んでいた国ではそうだった。大勢が信じていると、例え嘘だと皆が薄々分かっていることでも真実として扱われるのだから」

 

 鏡の中の自分が苦々しく笑いながら、金色の目でこちらを見ているのをオディラギアスは見た。

 

 視界の端に、腹心ゼーベルの緋色の蛇体と髪がちらちらする。

 龍震族と歴史的にも関係が深い種族である蛇魅族は、人間族のような上半身に、大蛇の下半身という姿を持つ。

 職人、特に金属加工に優れた腕前を発揮し、戦闘的な龍震族に対し、武器職人として取引してきた歴史を持つ彼らの中には、このゼーベルのように、高貴な龍震族の従者として採り立てられる者もいる。専門の武器職人を抱えることは、高貴な龍震族にとっては一種のステータスになるということもあるのだ。

 

 しかし、歴史上関係が深いと言っても、蛇魅族の文化は龍震族のそれと必ずしも近いとは言えない。

 殊に、蛇魅族の鱗の色は、龍震族のそれと同じくらいには重視されているが、白い鱗は吉兆として珍重されるという。

 龍震族は白を「弱者の色」「死の予兆」として不吉に捉えるが、蛇魅族は白を「神聖」「吉兆」と捉える。白い蛇体を持つ者の打ち上げた武器には、特別な神性や魔力がこもるという俗信も根強いらしい。

 しかし、ゼーベル本人の鱗の色は緋色。

 鮮やかな緋の鱗に同じ色のタテガミのような髪を揺らすゼーベルは、彼らの種族の中でそう信じられているように、良い鍛冶の腕前を持っていた。

 お陰で、オディラギアスがゼーベルを雇い入れる口実にも便利だったし、異種族が近くにいることで、オディラギアスは龍震族の中の価値観だけで押しつぶされずに済んだ。

 

 それに――同じ秘密を共有することができたのは、双方にとって幸いだったのだ。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「これはルゼロス王国第八王子、オディラギアス殿下、御来光をお待ち申し上げておりやした」

 

 オディラギアスの就く太守の玉座の前で、丁寧に膝を折っているのは、存外若く見える人間族の男性だった。

 体はさほど大きくなく、童顔なのも相まって、実年齢より一層若く……というより幼く見えているのかも知れない。

 この辺ではあまり見掛けぬ、カッチリした印象のスーツを着込んでいるが、足元はぬかるみのジャングルでも進めそうな頑丈そうなブーツだ。

 オディラギアスは、元の世界で言うならスチームパンクと称して、フェイクの武器で武装しているくせに古いスーツ風の出で立ちを見せる好事家たちを思い出した。

 

「一介の商人風情が、オディラギアス様に謁見を申し込むたあ、いい度胸だなぁ!? それなりの用件でいやがるんだろうな?」

 

 オディラギアスのボディガードも兼ねているため、大太刀で武装しているゼーベルが、野性的な顔を厳しくいからせて、その小柄な商人を威圧しにかかった。

 

「もちろんでさぁ。このジーニック・マイラー、天地神明にかけて、重要な案件をお持ち申し上げたんでさあ」

 

 異国のどこかの都市の訛りなのか、巻き舌の威勢の良い口調で、そのジーニックなる若者は話し出した。

 

「太守様、こいつはこちらスフェイバばかりか、もしかするとルゼロス王国全体、それどころか海の向こうまで影響のある、安全保障の問題かも知れねえんで。まずます、今の状況から見るに、一番危ないのはこのスフェイバとしか思えやせんので、下賤の身の恥を忍んで、こうして進言にまかり越した訳でさあ」

 

「ふむ……商人が口にするには、ずいぶん大きな話だが、一体どういうことなのだ? 危ないとは、どういう意味でだ?」

 

 オディラギアスは、商人だというその男の大仰な口調に、流石に興味を引かれた。

 どうせ、自分の商品を御用達にしてくれ、くらいの話かと思っていたら、妙な話を繰り出してくる。

 オディラギアスは、まだ慣れない石造りのその謁見の間に素早く視線を走らせ、まだ朝のさわやかさを残す光の中で続きを促した。

 

「このスフェイバの遺跡のお話……と申し上げたら、信じていただけやすか?」

 

 にわかに緊張を帯びた調子に、オディラギアスは表情を強張らせた。