41 神封じの石

「なに……何なの、これ……」

 

 百合子は、その奇怪な石を見て震えあがるしかない。

 

 それは、一体石……鉱物であるのか、何であるのか見当を付けづらい、奇妙な物質でできているように見える。

 ぬるりとした質感の泥が渦を巻き、それがそのまま固まったような。

 渦の合間に、明滅するガラス質の何かが埋め込まれているように見える。

 その渦巻くガラス質から、ホログラムのように見える立体的な紋様のようなものが空中に投影され、一刻も定まらず、変化し続けているような。

 

 百合子は、思わず足がすくむ。

 その幻影の意味はわからないが、見ていると、おそろしく気分が悪くなり、無理やり深酒させられた時のように、えずきが上がって来る。

 

「ほう、我らが眠れる神も、おぬしが来て喜んでおられる。やはり、良質な刻ノ石を生み出す種類の人間だと、お分かりになるらしいわ」

 

 まぼろし大師が、にやにやしながら、百合子を振り返る。

 百合子は、思わず二、三歩後ずさりせざるを得ない。

 

「……私が、この神封じの石の気に入る刻ノ石を生み出したなら、ナギちゃんは解放してくれるって? さっきも言ったけど、無理だと思うわよ。こんなお化けの気に入る石なんて、生み出せないわよ」

 

 呆れたように、百合子はその大きな「神封じの石」を見やる。

 確かに、それは恐らくかつて、邪な意思を漲らせる強大な「何か」だったのであろう。

 今でも、百合子が人間としてというより、生命体として危機を覚える何かを周囲の空間に放射し、百合子はそのお陰で気分が悪くなってくる。

 

「そもそも、ナギちゃんをこんな目に遭わせる連中のために、都合よく刻ノ石なんて生み出せないわ。真砂さんもいないし」

 

 百合子は冴祥の手の中にある、ナギが封じられた鏡を見やる。

 こうなっては、真砂と天名の二人に救出してもらうことを期待するしかないが、そういえば彼女たちは、まだ妖精郷にいるのだろうか。

 相当混乱したのではないか。

 何せ、冴祥、暁烏、ナギ、そして百合子が消え、彼女たちは妖精郷に置き去りにされたとしか思えない。

 

 だが、そのお陰で都合のいいことはある。

 真砂がいなければ、「刻ノ石」は生み出せない。

 こいつらはどうやっても、百合子から刻ノ石を分離することはできないはずだが。

 

「なに、案ずるな娘」

 

 まぼろし大師がけたけた笑って、百合子を引っ張って、神封じの石の前に連れてくる。

 百合子は物理的な実体のように押し寄せるおぞましい気配に、思わず逃げ出したくなるが、背後から、冴祥が彼女の肩を捕まえる。

 

 思わず、百合子は元仲間を睨み据える。

 

「冴祥さん……!!」

 

 冴祥の顔は悲し気で、同情するような諦めたような表情で、百合子を見返している。

 彼の膂力は思いのほか強く、肩を押さえられた百合子はほとんど動けない。

 

「おお、出たわ!!」

 

 まぼろし大師が、喜悦の声を上げたのは、その時。

 百合子がはっと振り返ると、彼女の胸の当たりから、燃えるような赤と、澄んだ黒の混じり合った、不思議な拳ほどの石が、ぽろりとこぼれたのだ。

 ぎょっとする百合子の目の前で、その石は空中に浮き上がり、神封じの石の蠢く光の立体図の中に飲み込まれて行く。

 

 その瞬間。

 

 声なき声とでも言うべきか、音にならぬ大音声のような何かが、その部屋に鳴り響く。

 冥府の炎を模したような百合子の刻ノ石が、勢いよく神封じの石から吐き出されて、床に転がる。

 

「えっ……」

 

 正直、しまったと思っていた百合子は、どうやら自分の心の欠片が邪神に食われずに済んだようだと判断する。

 だが、何故なのかは全くわからず、唖然とするしかない。

 

「なんじゃこれは、何が……」

 

 流石にぎょっとした様子のまぼろし大師が、百合子を凄まじい目で睨みつけるが、百合子も何が起こったのかなど、わかってはいない。

 

「ああ、なるほど。百合子さんの怒りに混じっていたものが問題ですね」

 

 冴祥が、不意に事態を読み解き始める。

 まぼろし大師は、冴祥に視線を移す。

 

「何じゃ、何が起こったかわかるのか、冴祥!!」

 

「百合子さんの怒りに混じっていたものが問題です。誰かを想う気持ち、助けなきゃという光でしかない意思、彼女たちの身の安全を案ずるが故の怒りでは、あちらの邪神様のお口には合いませんでしょう」

 

 冴祥のその言葉を聞いて、まぼろし大師がにやりと口を歪める。

 長い牙が見える。

 

「ほう。お主、連れが心配か。あの有名な、真砂と天名とかいう、神器作り職人の二人組な」

 

 百合子は、まぼろし大師の禍々しい笑みにぞっとする。

 何をする気なのか。

 彼女たちは、ここにはいないが。

 

「そういえば、知っておるか。お主の連れの、あの二人組、この高月城下へ侵入して来おったわ」

 

 はっとして、百合子は目を見開く。

 彼女たちが、助けに来てくれた!?

 

「今どうなっておるかわかるか? 見せてやろうぞ」

 

 まぼろし大師が、神封じの石の表面を撫でる。

 その石の周囲に展開していた奇妙な立体映像が、何かを核にしたように、収束する。

 そこに映し出されたのは。

 

「真砂さん!? 天名さん!?」

 

 百合子が悲鳴を上げたのも道理。

 

 そこには、焼け焦げた地面に、ボロボロになって横たわっている、真砂と天名の姿が見えたのだ。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

「ううん? ここはどこだよ?」

 

 真砂が、とぼけたような声で、彩色された、城の高い天井を見上げる。

 

「高月城の内部に決まっておろう。城のどのあたりかは知らぬが」

 

 天名が、取り戻せていたらしい、手の中の扇をぱちりと鳴らす。

 

 彼女たちの前後に、長く、ところどころに灯籠の灯された廊下が、延々と続いている。

 壁一面には金泥を中心にした絵が描かれており、その灯火の中に妖しく浮かび上がる。

 何せ、地獄絵のような題材が中心の禍々しいことおびただしい代物であるが、豪奢に表現された地獄の炎や獄卒の鬼たちが、不穏な美しさを見せていることには違いない。

 

「さて。百合子たちはどこかな? 今頃何かされてなきゃいいが」

 

 真砂の口調は気楽なようだったが、その底に横たわる不安は、水底の物音のように深く響く。

 

「わざわざまぼろし大師が招きおったのだ。もしや、私らも利用しようとする腹積もりなのではないか。どういう利用の仕方かによっては、百合子に会えるかも知れぬ」

 

 天名が腕組みをして廊下を歩き出す。

 女二人の足音は、軽い床板の軋みだけ。

 

「おや、庭があるね」

 

 ふと、真砂が開けた月の射すその空間に目を留める。

 

「で。あれは誰だと思う?」

 

 天名が、優雅に扇を広げて臨戦態勢。

 

 萩の植えられた風雅な庭には、ぽつりと一つ、被衣姿の美しい人影があったのだ。