3-7 悪魔の呼び声

「ゼーベル?」

 

 オディラギアスが、不審さも露わに、従僕に声をかけた。

 

「一体、どうしたのだ、ゼーベル? 顔色が悪いな。気分がすぐれぬのか?」

 

 実際、ゼーベルの様子は「気分が悪い」程度で収めるには、明らかに奇妙なものだった。

 まるで痛みをこらえているかのように脂汗をかき、紅い目の瞳孔が収縮している。

 

「すみません、なんでもな……」

 

「なんでもないって顔じゃないよ!! おかしいよ、どうしたの!?」

 

 ふいっと彼の前に回ったマイリーヤが、顔を覗き込んだ。

 ゼーベルはまじまじと、初めて会うかのように彼女を見て――がくがくと、目を逸らした。震えている。

 

「……怖いんだ」

 

「え?」

 

「怖いんだよ。理由が分からねえんだが、とにかく怖いんだ!!」

 

 途中から叫び出したゼーベルの周囲を、一行は守るように取り囲んだ。

 

「落ち着いて下さいな。具体的に、何が怖いんですの?」

 

 穏やかな優しい声音で、レルシェントが語り掛けると、ゼーベルはほんのわずかに落ち着いたようだった。

 

「分からねえ。本当に分からねえんだ。なんていうか、この先に進んじゃいけねえような気がするんだ……」

 

 足、というか蛇の下半身を縮こまらせ、ゼーベルはわなないた。

 

「……何かの急病とか、身体的な不具合じゃないね。本当に、ただ怖がってるだけだ」

 

 イティキラが、ゼーベルの体の側で手をかざす。

 野生の生命力と親しい彼女ら獣佳族は、全員が生来の医者でもある。回復魔法はもちろんのこと、自らの魔力を患者の心身に接触させて、患部を解析することも朝飯前だ。

 

「だけど、この反応はおかしいなあ……これ、まるで絶対に勝てない魔物にでくわしたとか、さもなくば……」

 

 一瞬、イティキラが言い淀む。

 

「イティキラ?」

 

「……すっごく深い、心の傷とかを刺激された時の反応、だ……」

 

 怪訝そうにイティキラが告げると、オディラギアスが考え込み、ジーニックがきょろきょろと周りを見回した。

 

「心の……って、周りに何か変わったものってありましたかい?」

 

 彼の目に映るものは、だだっ広い遺跡の通路。

 閉所恐怖症になるには広々としすぎているし、暗所恐怖症になるには、光源不明の光で明るすぎるだろう。

 さきほどまで機獣と古魔獣の混成部隊と戦っていたが、ゼーベルが今更それを恐れるようになるとは考えにくい。念願の魔導武器を入手にて以来、戦闘となると真っ先に飛び出して行くのに。

 

「……おかしいわ。魔法を使われている気配もないわね……」

 

 困惑気味に、レルシェントが周囲の空間に注意を巡らせた。

 星の蒼の目が、他の者には見えない何かも見通すような独自の鋭さで注がれる。

 

「遠隔で魔法を使われたら気配が分かるし、恐怖心を刺激する魔法罠を仕掛けてあるなら、ゼーベルさんだけがかかるのはどう考えても不自然だわ……」

 

「しかも、『この先に進んではいけないような気がする』……妙だな、ゼーベルに限ってこのようなことを申すとは」

 

 オディラギアスは、不審さに金色の目をすがめた。

 ゼーベルという男のことは、誰よりもよく把握しているつもりだ。

 彼が前に進むことを恐れるなど、最も考えにくいことの一つである。

 普段なら、オディラギアスが止めねばならぬほど、ぐいぐい前進するタイプなのに。

 

「でも……もうすぐ、遺跡の最奥部でしょ? まさか引き返す訳にも」

 

 ゼーベルに心配そうな視線を注ぎながらも、マイリーヤは少し先にある、巨大な金属扉にも視線をやった。

 恐らくあれが最後の関門だ。

 

「どうします? この状態では……『ソウの庭園』を設置して、ゼーベルさんには中で待っていていただいて……我らだけで最深部に」

 

 レルシェントは珍しく言いにくそうに、そう切り出した。

 

「ソウの庭園」は、一種の結界機能も持っており、持ち主が指定した人物以外は、内部に入れないようになっている。それを設置して、内部にゼーベルを待機させれば、外で何があろうとゼーベルは安心である――心まで守ってくれる訳ではないので、ゼーベルの恐怖心は消えないだろうが、少なくとも身柄は守られる。

 

「いや」

 

 だが、ゼーベルはきっぱり首を横に振った。

 

「流石にここでケツまくりたくねえ。それに……」

 

「それに? どうしたのだ、ゼーベル?」

 

 初めて見る従僕の様子に、オディラギアスは怪訝な顔を見せた。

 

「……怖いのは怖いんですが……呼ばれてる気もするんです、オディラギアス様……」

 

 オディラギアスはますます首をかしげた。

 

「呼ばれている? 一体誰にだ?」

 

「分からねえんです……分からねえんですが……何だか、知ってる奴のような気もするんです……」

 

 瞳を揺らせるゼーベルをまじまじと見てから、オディラギアスはレルシェントを振り返った。

 

「レルシェント。こういう魔法の類は、霊宝族の中には存在するのか?」

 

 暗に、これはこの遺跡に仕掛けられた魔法的な罠ではないかと、オディラギアスは示唆していた。霊宝族の使いこなす驚くべき魔法は、断片的だが、龍震族の歴史文書の中にも存在する。こういう非常識な術が存在してもおかしくはない、と、彼は考えていた。

 

「ええ。幾つか術を組み合わせれば、ゼーベルさんの状態も、魔術的な罠で説明がつくかも知れません。しかし、それにしてはおかしなところがありますわ」

 

 レルシェントがきっぱり答える。

 

「と言うと?」

 

「まず第一に、内部に侵入した異種族を追い払うためだったら、こんなに複雑な精神症状を出す幻覚系の術を使う必要はありません。もっとシンプルで強力にして、踏み込んだ者が問答無用で逃げ出すようなものにすればいいのですから」

 

「なるほど」

 

 オディラギアスは唸る。

 確かに、「平常心を保てないほど怯えるのと同時に、そこに行かなければならないと思わせる」、というのは、追い払うための罠としてはおかしい。

 

「第二に、あの遺跡のAIケケレリゼは、そもそも我らを追い払おうとはしていませんでした。彼の言動、そして今まで遺跡内に施設されていた関門を考えるに、彼の目的は『我らを追い払うこと』ではなく『我らを試すこと』ですわ」

 

 そもそも、追い出す気があるのでしたら、転移魔法でも使って我らを外に放り出してしまえば良いのですし、そもそも遺跡を開いたりしませんわ、とレルシェントが続ける。

 オディラギアスも、ゼーベルを除く他の三人も、納得せざるを得なかった。

 

「……大丈夫。もう、大丈夫です、オディラギアス様。みんなもすまねえ」

 

 ゼーベルがぐいっと体に力を込めて背筋を伸ばした。

 まだ顔は蒼白だが、目に光が戻っている。

 

「……よく分からねえ。何で異種族五人いるのに、俺だけなのかも分からねえが、とにかく、俺は呼ばれてる。何があるのか分からねえが、呼ぶんだったら、行ってやるまでだ……!!」

 

 周囲に語り掛ける、というより、自分に言い聞かせるかのような、ゼーベルの言葉に、誰も異論は挟めない。

 

 彼らは再び隊列を整え、前に進んだ。

 最後の関門があるであろう、その扉へと。