2 気のせいと謎の女

 静かに、その本が図書館のカウンターに置かれる。

 

 司書たる御園生百合子(みそのうゆりこ)は振り向いて対応する。

 各種告知事項を印刷した紙を挟んだビニールのマットの上に置かれた、暗い色の古めかしい本のタイトル、貸出用のバーコードを確認する。

 

「はい、お預かりいたします。こちら、一冊ですね」

 

 水色のエプロン姿の百合子の、大きなニュアンスのある瞳に、深く穿った窓で日差しを抑えて落ち着いた光量の閲覧室内部と、その借主の少年が映っている。

 別段、気にするようなことではないはずだ。

 平日の昼間に学生が来るとは言え、今は世間は春休み。

 グレーのパーカーの高校生くらいの少年がやって来るのは、不自然ではなかったはず……であるのだが。

 

 その少年の目鼻立ちを見た途端。

 百合子は、全身総毛立つのを感じたのだ。

 

 物凄く目立つというほどではない少年だ。

 目鼻は整った部類に入るだろうが、張り切ったいでたちをしているという訳でもない。

 しかし。

 百合子は見てしまったのだ。

 彼の左目の目じりの、裂けたような傷跡。

 泣いているように見える目の表情は暗く、夜陰を映した水のように底がない。

 

 目の傷……

 あいつ……

 

 百合子の脳内に、警報が鳴り響く。

 それでも、二年目に入った職場での社会人として自動化された脳内回路が、表面上は何事もなかったように、一連の市立図書館の司書としての仕事をこなす。

 

 嫌でも甦る記憶。

 いつもとは違った形になってしまった、幼い弟。

 赤く溢れる血。

 あの時見たのだ。

 あの若い男だ。

 左目の目じりに傷がある……。

 そうだ、あの顔立ちだ……。

 

 しかし、脳内の理性の声が割り込む。

 落ち着け。

 あの事件はもう二十年も前のことだ。

 目の前のこの少年は、まだ高校生くらい。

 あの事件のあった時点では生まれてもいないはずだ。

 

 それでも。

 百合子は引っ掛かる。

 

 返却期日を印刷した紙片を発行する時に、パソコンの画面、読み込んだ貸出カードの付随する、その少年の個人情報をちらっと見やる。

 借りていく本は「刻窟(ときのいわや)伝説集」。

 借主少年の名前は、鵜殿文章(うどのふみあき)。

 そして、彼の住所になっているのは、刻窟市(ときのいわやし)N町だ。

 

「ありがとうございます。ご返却は〇月△日までです」

 

 聞き取りやすい声をかけつつ、その本を鵜殿少年に渡す。

 目じりに傷のある鵜殿文章は、特段表情を変えることもなく、本をリュックに詰め込み、カウンターを離れる。

 すぐそばの自動ドアを通って、図書館から出ていく背中が、百合子に確認できる。

 

 ……なんだったんだろう?

 あの時に見た犯人にそっくりだなんて……

 今日は変な日だ。

 そんな訳ない、そんな訳ないのに。

 

 百合子は、脳内でまだ点滅を続ける赤い記憶をどうやったら振り払えるのかと思案する。

 いつもはしばらく経つと自然と落ち着いていくものだが。

 今日はいつもより生々しく思い出す。

 他人の空似なのに。

 

「司書のお嬢さん。幽霊でも見たような顔だね?」

 

 不意に声をかけられて、百合子は再び顔を上げる。

 

 そこにいたのは、今度は女性だ。

 三十絡みくらいの、眼鏡をかけた地味だが、非常に整っているのがわかる女性。

 女性にしては背が高く、ゆったりしたスプリングコートの上からも、均整の取れたプロポーションが窺える。

 

「もしかしたら、さっきの若造に見覚えでもあるのかな? でも、駄目だよ? 近寄らない方がいい」

 

 いきなりそんなことを言い渡され、百合子はぽかんとする。

 

「あ、あの……」

 

「あいつめ、舞い戻って来たみたいだ。ここの街で最初にやらかした以降、日本のあちこちでやらかしては転々と……そして舞い戻ってきた訳だ。多分、二十年ぶりくらいだな」

 

 奴も、懐かしいとか思っているのかな?

 不意に人を食ったような顔で笑われて、百合子はますますきょとんとするしかない。

 この図書館で何度か見たような記憶のある、その女性を、百合子はしげしげ眺める。

 地味そうな見た目にも関わらず、腰に手を当てて反り返り、まるでどこぞの指揮官みたいな態度。

 何かを知っている様子。

 

「ええっと、貸出ですね、はい……」

 

 百合子の社会人回路は、今回もつつがなく作動する。

 その女性の借りるべく持ってきた本は「刻窟の祭礼と各種伝承」。

 彼女の名前は、深石桃子(ふかいしももこ)。

 ちなみに住所は、刻窟市S町。

 

「多分、あいつに見覚えがあるんだろう? それくらいわかる。二十年前の事件の関係者か何かかな? 不幸な話だ」

 

 深石桃子は、流石に同情すると言いたげにため息をつく。

 

「だが、何もするんじゃない。この件に関して、君にできることは何もない。恐らく一週間くらい経てば、あいつが本を返しに来るだろう。何事もなく対応するんだ、いいね? あいつを嗅ぎ回ろうなんて夢思うんじゃない。君の手には負えない」

 

 百合子は、ぐらぐらする頭を抱えつつ、それでも、その貸出手続きを進める。

 どういうことなんだろう?

 何が起こっているのだ。

 さっきの少年と、この女性は何だ?

 この人は何が言いたいんだろう?

 

「じゃあね、いい働きぶりのお嬢さん。約束だ、変なことを考えるんじゃないぞ?」

 

 いつものように返却期日を印刷した紙片を本と一緒に手渡す。

 深石桃子は、本を取り上げてショルダーバッグに突っ込むと、指先で百合子の形のいい鼻に触れ、そのまま踵を返す。

 

 彼女の後姿を見送りながら、百合子は、何か目には見えないけど、大きな装置の歯車が、どうしようもなく回り始めてしまったのだと感じ取っていた。