「それ」は、分類するなら、アンデッドの類であっただろう。
しかも、かなり悪質な部類のアンデッドだ――通常なら、大きな街の真ん中、まして王族の住まう王宮になぞ、姿を現す訳もないような。
それは排煙のような薄黒い気体じみた姿で、窓から染み入るように侵入してきた。
はためく巨人のマントのように広がり――次の瞬間には、本当にボロボロのマントめいたものをまとった、朽ち果てたミイラのような姿になった。
実体化しても朦朧とし、腰から下は、相変わらず黒く渦巻く煙のようにたなびいている。
側にいるだけで氷に押し付けられたような冷気が押し寄せる。
よほど気を引き締めていないと、体の中から生命力のようなものをごっそり抜き出されそうな――そんな、異様な虚無感を、その存在は発散していた。
「なるほど、実に都合の良いボディガードですわね?」
ゆったりとした、豪奢な龍震族様式の客室で、レルシェントは艶然と微笑んだ。
「普段は霊体だから、不可視にしてどこにでも潜ませておける。その上、必要とあらば、このように実体化させて暗殺にでも使える。理想的ですわ」
ひゅん、とレルシェントは、その両手の中に愛用の双刀「星映す宇幻剣」「星巡る宙夢剣」を呼び出した。
冷たく禍々しい邪気を祓うかのような、清冽で輝かしい気配。
そして恐らく、とレルシェントは「それ」の魔力を読み取りながら、脳裏に付け加える。
こういう実体化が薄く、恐らく肉体を傷つけるというよりは、生命力そのものを直接蝕む系統のアンデッドは、龍震族が相手取るに、最も苦手なタイプであろう。
龍震族が得意の武器で攻撃しても効果が薄く、そのくせ相手の攻撃は龍震族の攻撃緩衝壁をすり抜けて、ごっそりその龍震族の生命力を吸い取っていく。
一体、今までこいつに生命力を吸い取られ、急激に衰弱して死んでいった――つまりは暗殺されたダイデリアルスの兄弟たちはどのくらいいいるのか。
「行け、凶霊マバイラ!!」
勝利を確信したけたたましい声で、ダイデリアルスが哄笑する。
「この女を殺し、アンデッドにして操れ!!」
なるほど、とレルシェントは読み取った魔力波長で知ったことを確認する。
このアンデッドは、殺した人間の骸(むくろ)に入り込み、生きているかのように操ることができるのだ。
恐らくこの能力も、ダイデリアルスは悪用したことがあるのだろう。指示がすんなり出て来過ぎる。
「あなたは、何でもご自身の基準でしか物事をお考えにならないのですわね」
レルシェの艶麗な顔に思わず苦笑が浮かぶ。
呪文を詠唱するまでもなく、その蠱惑的な肢体を、星の輝きに似た光の帳が覆う。
防御魔法「星霊なる女神のヴェール」。
これでほとんどの攻撃を無効化できる。まして、アンデッド系の魔物は、触れるだけでも危険という代物だ。マバイラがぶるりと震えたのが分かった。
「そういう小細工で今まで誤魔化せたことがおありになったのは、魔力感知が苦手な龍震族の方々しかいらっしゃらなかったからですわ。あたくしの仲間には、他の種族もおりますの」
まして他の霊宝族の前に出たら、何があったかなんて丸ごと読み取られますわよ? と口にしつつ、双刀に攻撃補助魔法「聖なる裁きの霊刃」を注ぎ込む。刀身が発光しだす。
マバイラが不吉な夜の鳥のように、ふわりと頭上を覆ってきた。
その動きに押されるように、レルシェは斜めにバク転。
連続して繰り出された聖なる双刀が、まるで風がわだかまった煙を吹き散らすように、その半霊体の肉体を削り取った。
生き物のそれとは思えない――実際、生きてはいないが――奇怪な悲鳴が上がった。
単に剣が削り取った部分だけではない、まるで空間に消しゴムでもかけたかのような抉られようのマバイラは、大慌てで纏う邪気を削られた部分に注ぎ、修復を試みた。
「だの魔術師に借りたのか知りませんけれど、こんなのを魔法の素養もない方が使うなんて。身の破滅……」
そこまでレルシェが口にした時。
『サイ、ブチ……』
まさに体の芯に染み込んでくるような、冷たく重い、怨念の籠った声が、その名を呼んだ。
ぎくり、とレルシェの体が強張る。
まさか、そんな。
この声は。
真っ青になったレルシェの前で、朽ちて顎の骨と歯が剥き出しになった口が開いた。
『オマエハ……イワレタトオリニシロ!!』
わんわんと、エコーがかかったような声が響いたが、その基本的な声質と口調が、あまりに記憶をえぐった。
『……ミカエリヲモトメズニ……サシダセ!!』
「……稲野課長……?」
レルシェはすうっと暗くなる視界を意識した。
レルシェント、前の世界の細淵美澄(さいぶちみすみ)は、ある大手の家電メーカーの設計士だった。
そこに、どうにも嫌な上司がいた。
まるで執拗に狙いすましたかのように、美澄の成果を取り上げ、上には自分の手柄だと報告するえげつない男。
その男の口調が、凶霊マバイラの口調にそっくり重なる。いや、そのままだった。
何をしても、その成果を取り上げられるだけの会社生活。
到底、その働きに見合わない報酬しか与えない口実に、恐らく本人だって信じていないような、うすっぺらい精神論を振りかざして、反論を許さない。
社畜というよりは、その男の家畜のように、吸い上げられるだけの時間は、あの夏の日を最後に止まっているが。
ゼーベルの、ジーニックの、イティキラの、マイリーヤの経験した、前世から追いかけてきた悪夢が思い出される。
当然、こうなることは予想されていた。
本当に、一番恐れていた「こいつ」が来るとは。
『シタガエェェエエェェェ!!』
マバイラが、かつて稲野だった者が、全身から闇を迸らせた。
それは恐ろしく薄く柔軟な刃のように、広がりながらレルシェントに襲い掛かった。
しかし。
呪いを具現化したかのような、その闇のリボンは、レルシェントの肉体を取り囲む輝きに打ち消され、消滅した。
そうだ、とレルシェントは思い出す。
自分はもう、あのごく無力な社畜ではないのだ。
魔法がある。
知識がある。
理解者がいる。
後ろ盾がある。
女神の愛がある。
たった一人で世界に漕ぎ出る勇気がある。
仲間がいて。
そして。
『レルシェ!! しっかりしろ!!』
脳裏に念話で響くのは、大切なあの人の声。
自分を世界一強くしてくれる、あの人。
全部が、彼女を守ってくれているから。
だから、今は剥き出しで傷を受けるだけじゃない。
「残念ですね。稲野課長。あなたは、向うにいた時から、アンデッドじみた方でしたけど」
レルシェントは、彼女には珍しく、露骨にせせら笑った。
「この世界においでになられて、ますます劣化されましたわね。相応しいお姿と能力に、なったとも申しますけど?」
レルシェントは、片方の刀を、ぴたりと薄黒い影に向けた。
「裁きの光」
一瞬、視界がホワイトアウトした。
轟音。
次の瞬間には。
マバイラの存在していたところには、何も残らなかった。
「さて……」
おもむろに、レルシェントが振り向くと、大きな音と共に扉が閉められ、こけつまろびつ逃げていくダイデリアスの、龍震族特有の足音が遠ざかっていた。
魔力波長を読めるレルシェントの目には、まるで薄布でもひきずるように、彼の恐怖の気配が空間に垂れ流しなのが見えて、何だか哀れになった。
「何が、本当の龍震族の男の雄々しさですの……まあ、いいわ」
情報は、掴んだ。
すでに、ここにいる意味はない。
『レルシェ、大丈夫なのか!?』
緊迫したオディラギアスの口調に、レルシェントは嬉し気な気配を返した。
「オディラギアス。分かりましたわ。これでここから引き揚げても大丈夫ですわよ。お母様をお連れして。あなたも、運命の骰子が使えるはずですわよね?」
悠々と自分の荷物の中から、一見船の模型のように見えるものを取り出しながら、レルシェントはオディラギアスにそう要請した。