その3 あやし皇子と妖聖女の婚約

 瑠璃は夢を見ていた。

 

 ふんわりと、脳裏に浮かぶのは、あの事件の次の朝。

 ざわざわとざわめく教室が、遠いことのように思えた。

 誰かが話しかけてくる。

 それに答えてから、瑠璃はふと教室の入口に目をやった。

 

 がらり、と、乱暴な音と共に教室の扉が開いた。

 そこに、「彼」はいた。

 異国の神像を思わせるエキゾチックな色白の顔には、傲岸な表情、紫色の染めた髪に、磨き上げた黄金の瞳。

「彼」。

 神楽森紫王。

 

 彼は、いつも一緒にいる乾仁と共に、いつもの席に座り、だらしなく椅子によりかかった。

 それまでだったら、怖いという感慨しかなかった。うっかり目など合わせないよう、切実に祈っていた。

 彼に関して、芳しくない噂しか聞いたことはない。

 曰く、親が資産家かつ名士で、その親の権勢を盾にやりたい放題だとか。

 喧嘩は日常で、入院させられた人間が何人もいるとか。

 いつも一緒にいる乾仁は、彼の親も紫王の親が経営する会社で働いていて、実質上家ぐるみで紫王の「家来」みたいな立場だとか。

 紫王に迷惑かけられて警察に相談しても、親が金と権力でもみ消してしまうから無駄だとか。

 何だか自分の住んでる世界とはかけ離れたクラクラするような紫王自身と環境に、最近までは恐怖しかなかった。

 だけど。

 

『よーす、瑠璃ちゃーん!!』

 仁が馴れ馴れしく声をかけてきた。

『昨日は、どーも。あの後、なんもなかった?』

 普段狼みたいな迫力の仁の顔は、にぱっと軽薄に笑うと余計に怖い。

 すぐ側で知らんぷりしている紫王の顔も、確かに怖いけど質が違う。紫王は何だか、きれいだけど、恐ろしい罰を与えてくる鬼神みたいな雰囲気だ。

 

『神楽森くん、乾くん』

 瑠璃は、彼らの席の側まで歩み寄った。

 紫王が、ふっと顔を上げる。目が合った。

『昨日は、本当にありがとう。助かりました』

 丁寧に頭を下げると、紫王は瑠璃に向き直った。

『……昨日の怪我。もう痛まねえか?』

 そんな風に話しかける紫王に、瑠璃はほんのり色づく頬を意識しながらうなずいた。

『ありがとう。あの後、全然痛まないんです。凄いですね、あの薬』

 ふと、金色の目に刺すように見据えられているのに気付き、瑠璃の心臓が跳ね上がった。

『……あの』

『敬語とか、いいから』

 ちょっと不機嫌そうに、紫王が唸る。金色の目の、強烈な引力と魔力を、瑠璃は感じる。

『え』

『……タメなのに、敬語とかで話すな。フツーに話せ』

『は……うん。ごめん』

 たかがそんなことに、妙にときめいてしまう自分に戸惑いながら、瑠璃はうなずいた。

『……沢渡《さわたり》高の奴ら、けっこうしつけえんで有名だから。もし、また何かあったら、すぐに、俺か仁に言え』

『うん……ありがと』

 守ってくれる気でいるんだ……ただのメンツの問題だとしても。

 瑠璃はじんわり胸が暖かくなるような気がしていた。

 

 

 ゆったりと暖かい海の中を浮上するように、瑠璃の意識がはっきりしてきた。

「ん……」

 ふんわり暖かい布団の中で、瑠璃は身じろぎし……目を開け、ぎくりとした。

 

 ここは、どこだろう。

 

 目を開けてすぐ目に入ったのは、絢爛豪華な鳳凰の絵だった。

 寝覚めの頭では、それが天井に描かれた彩色画と気付くまでに、たっぷり四秒ほどかかった。

 ああ、修学旅行で見たお寺みたいだなと思い出すまでに、更に二秒ほど。

 

 いや、待て。

 ここはどこだ。

 自分はどうなっているのだ。

 

 必死に記憶をまさぐる瑠璃の精神の指先に引っ掛かったのは――できれば、思い出したくなかった、おぞましい記憶だった。

 数人のやさぐれ者が乗ったバンに引っ張り込まれ、山の中――確か、妖怪が住んでいるという伝説のある神楽森山だったと思う――に引っ張り込まれた。

 実際に手を出されそうになって、必死で車の外に転げ出て、逃げた。男たちは、追ってきた。

 山中を走り回るうちに、がくっと足元の感覚が消失し――崖から足を踏み外したと理解したのは、斜面に叩き付けられる直前で、それからは何も分からなくなった。

 

 自分は、多分かなりの怪我をしたはず。

 なら、ここは病院なんだろうか?

 

 しかし、目の前に美しさを誇示するように翼を広げた鳳凰の天井画は、どう見ても病院にあるようなものではない。

 首を回してみると、周囲は、まるで歴史的建造物みたいな絢爛とした和風の屋内で……

 

 瑠璃は再びぎくりとした。

 顔を横に向けた途端、ふっさりした布団の上に伸ばされた、金色と赤虹色のステンドグラスみたいな美しい細工物が見えたのだ。自分はその上に寝ているようだ。

 なんだろう、これ?

 ふと、自分の体に注意を向けると、仰向けで寝ている腰の後ろ辺りの感覚が、何だか変だ。何か余分なものを腰の後ろに敷いているみたいな。

 腰枕?

 怪訝な思いで、上体を起こした瑠璃は、思わず小さく悲鳴を上げた。

 

 自分の体に、見慣れぬパーツが幾つも増えている。

 体の下に敷いているステンドグラス状のものは、背中から生えている……恐らくは、翅だった。蝉か何かみたいな、翅。

 そして、腰の後ろには、人間の足ほどの太さのある、蠍のそれのような尾が生えていた。目にもあやな虹色の甲殻に覆われ、先端に肉厚の大きな刃物みたいな毒針のある、人間二人分くらいの長さの、尻尾。

 それに加え、視界の端から体の前面を流れ落ちる髪は、尻尾と同じような虹色に染まっている。

 

「なっ……なにこれ……」

 小さく叫んで、瑠璃は呆然とそれらを見下ろした。

 よく見れば、手足の先端にも、美術品めいた優美な装飾のようなものがきらめいている。

「わ、私……!?」

 まだ、夢を見ているのだろうか。

 それとも、死んでしまって、何か人間ではないものにでもなってしまったのだろうか。

 思わずつねった、露出したふとももが赤くなる。

 ん、露出?

 よくよく体を見下ろすと、まるで海外のグラビアみたいな攻撃的で大胆な衣装をまとっていた。かあっと顔が赤くなる。

「なん、なん……」

「気が付かれましたか?」

 急に女性の涼やかな声がして、瑠璃は顔を上げた。

 広い和室の入口の襖《ふすま》がいつの間にか開いて、そこから着物姿の女性が顔を覗かせていた。着物といっても、今日見かける一般的なものではなく、大河ドラマで見かけるような帯幅の狭い小袖タイプのものだ。まるで、中世の女性である。

 ひゅっと、瑠璃が小さく息を吸い込んだのは、その女性の髪が碧天のような青で、唇も青く彩られていたからだ。しかも、肌までうっすら青く――とどめに、額に青白い角が小ぶりな刃物のようにそそり立っている。

 

「あっ、あの……!!」

 瑠璃は呼びかけたが、何と言えばいいのか迷った。この人、何でこんな場所でこんな妖怪みたいなコスプレしてるんだろう。

「大丈夫です、こちらは、天椿姫様の居城、神楽森城。あなた様はもう安全でいらっしゃいますよ、瑠璃様」

 その青い女性は、そう告げて、すいと滑らかな足取りで瑠璃の枕元に歩み寄って座った。

 すぐ側でにっこり微笑まれて、瑠璃の警戒心はわずかに下がった。

 いや。

 今、天椿姫様と言ったか。

 記憶をまさぐるまでもなく、それはこの辺で育った子供なら、誰でも知っている有名な妖怪だと思い至る。

 この辺り一帯、神代市《かみしろし》と呼称されている地方都市一帯を、支配しているとされる、有名な妖怪だ。元は、神楽森山にある山城・神楽森城の主であり、吉凶を自在に操り、恐るべき妖しの術の大家という大妖怪。似たような妖怪には全国的に有名な姫路城の長壁姫などがいる。

 天椿姫は絶世の美女であり、かつ、神代《かみしろ》を幾度も災いから救ったとされていて、市民に敬愛される妖怪である。瑠璃も幼い頃、「神楽森山妖怪スタンプラリー」なるイベントに参加したことがある。

 そして、神楽森山には、かつての神楽森城の、石造りの土台と石垣が残っているはずだ。が、建物そのものは、すでに存在していないはずだが。

 ここは、どこなのだ。

 

「神楽森城って……えと、それってもう、跡しか残っていないはずじゃ……」

 瑠璃は、自分の体をつぶさに調べて体調チェックする青い女に向けてそう問いを放った。

「ああ、現世ではそうですね。でも、ちゃんと保存する術もあるんですよ。何といっても、あの天椿姫様なのですから、そのくらい簡単だと思われませんか?」

 くすくす笑う女に、はあ、と気の抜けた声を返して、ふと何か言いかけた時。

 

「ああ、あなた様をこちらにお連れしたのは、紫王様なのです。大変ご心配なさって……お連れいたしますね」

 

 そう告げられ、一瞬瑠璃の頭が白くなる。

 何で、ここで紫王の名前が出てくるのだ。

 それを問おうとした時には、すでに女は襖の向こうに消えていた。

 

 いや、待って。

 これ、どういうこと?

 どうなってるの?

 

 地元のイベントの時に見かけた、神楽森城の石垣後を脳裏に思い浮かべ、そしてどうなっているのか自分の腰から生えた尻尾をいじりながら待つことしばし。

 

「久慈。気が付いたか」

 やってきたのは、確かに「あの」紫王だった。

 学校の制服ではないが、高級そうなニットパーカーとチノパン姿のその人物は、確かにあの神楽森紫王だった。

「神楽森くん、これ……どういうこと……」

 見知った顔に気絶しそうなほどの安堵を覚えながら、瑠璃はようやくそう尋ねた。

「ああ、まあ、大体のところを説明するとだな……」

 紫王はぽりぽり頭を掻きながら、口を開いた。

 

 紫王が言うには。

 瑠璃は、やさぐれ者から逃げ回るうちに、崖から転落して、瀕死の重傷を負った。

 それを助けたのが紫王たちと――彼の母の天椿姫。

 瑠璃は天椿姫の秘術によって、人間から妖怪に転生することにより、一命を取り止めたのだ。

「お前も、もう、俺と同じく妖怪だ」

 と、紫王は言った。

 ああ、まあ、人間ではないのだろうな。

 瑠璃は妙に冷静に受け止めた。

 背中の翼、腰から生えた尻尾、さっき気付いた額から生えた、魔物の王様みたいな優雅な角。

 だが。

「……神楽森くんも、妖怪……?」

「ああ。俺の母親が、その天椿姫なんだよ。親父は外国から流れてきた妖怪でな」

 本当は彼の父親は、そんないかがわしい言い方で表現されるようなあやふやな存在ではない、ということは、まだ瑠璃には分からない。

「でも、見た目……」

「ん? ああ、こりゃ化けてるだけだ。正体見るか」

 ふっと、光の波が、紫王の頭からつま先までを走り抜けたように見えた。

 次の瞬間、そこにいたのは、華麗な宝飾品を纏った、六臂の妖怪だった。

 

 髪の色が菫泥石の紫で、目が金色なのは、変わっていない。

 だが、秀でた額の中央に、魔性の紫色の金剛石が輝いている。

 彫刻のような見事な筋肉の美しさは、異形の六臂であるが故に、否が応でも強調されていた。古代インド風の装束を纏った全身は、紫色に輝く星のような発光体と、燐光のヴェールに覆われ、ぞくぞくするほど神秘的だった。

 

 ああ、この人は、人間じゃなかったんだ。

 だから、あんなに強いし、かっこよかったんだ。

 妙に腑に落ちた気分で、瑠璃はじっと紫王を見つめた。

 

「……あんまり驚かねえんだな」

「……綺麗だね、神楽森くん。何か、納得しちゃった」

 そんな答えを返す瑠璃に、ぐいっと紫王はにじり寄った。

「神楽森く……」

「久慈。お前、俺の、嫁になれ」

 唐突な言葉に、瑠璃は一瞬呆気に取られた。

「……お前を助ける条件てえのが、お前を俺の嫁にすることなんだ。お前の気持ちも訊きたかったが、それどころじゃなかった。んで、もう助けちまった。だから、嫁になれ」

 六本の腕にぎゅうっと抱き寄せられ、瑠璃は気が遠くなるかと思われた。

「でも……そんな……」

「……久慈」

 紫王は、じっと瑠璃の顔を覗き込んだ。

「お前、俺のこと、好きだろ」

 一瞬で湯だったように顔が真っ赤になり、瑠璃は顔を伏せたかったが紫王の大きな手で頭を固定されていた。

「……俺も、好きだ」

「神楽森くん……」

 えも言われぬ幸福感に包まれ、目もくらむかと思われる瑠璃の唇に、紫王の唇が押しつけられた。

 しばしの沈黙。

 

「……今すぐとかじゃねえ。今の時代だと、進学とか就職とか、色々あるだろ。それをクリアしてから、だ。要するに……ああ、結婚前提のお付き合いって状態になるな、当面。その後、婚約。色々落ち着いたら、結婚。いいだろ?」

 

 ぎゅっと瑠璃の手を握り、覗き込んだ金色の目は真剣そのものだった。

 神楽森くんて、こんなこと言うんだ。いいとこの子だから、こういうことも若いうちから考えなくちゃならないのかな?

 そんな風に思う。

 

 瑠璃はわずかに逡巡し。

 その後、はっきり、うなずいた。