ブラウニー!! ブラウニー!!

 ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ……

 

 誰もいないダイニングキッチンで、ラナは陶器のコップに入れられた新鮮なミルクを飲み下す。

 ダイニングのテーブルの側にすんなりした足でがっしと立ったまま、まるでつまみ食いする子供のように行儀悪く。

 滑らかな茶色い巻き毛をカチューシャでまとめ、大きな目は晴れ上がった空の色。

 チョコレートブラウンのオーバーオールが可愛らしい。

 

 レースのカーテンのかかった窓からは、雰囲気のある庭の繁茂した花木が見える。

 マグノリアの季節だ。

 午前中の家事が片付いたら、ちょっと見に行こうかな。

 

 周囲の家の誰も、この新しい住人が引っ越してきて間もない住宅のダイニングキッチンで、ラナという名の妖精ブラウニーが、新鮮なミルクを味わっているなんて、知らない。

 

「ぷはぁ、美味しい……。ご主人の『感謝の気持ち』は最高だわ……」

 

 日本だったら風呂上がりのおじさんのように身も蓋もなく、茶色い巻き毛と青い目の愛らしい美女が、雇い主から贈られた新鮮な一杯のミルクを味わっていたのだった。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 いわゆる家事妖精のブラウニーである、ラナ・ブライトンが、新しい「主」となる神魔、D9ことディアナ・クラガノと出会ったのは、以前から繋がりのあった公的機関からの紹介である。

 

 その「公的機関」というのは、何を隠そうアメリカ国防総省ペンタゴン。

 その中で、対神魔に関する軍事作戦を一手に担当する神魔による特務部隊、「Oracle」が、新しくメンバーとなった神魔の女性についてくれる家政婦を探していた。

 ラナは、以前Oracleのメンバーに危急を救ってもらったことがあり、彼らに存在を把握されていた。

 今まで仕えていた人間の資産家が亡くなり、職を失ったラナに、新しく日本から来た高位神魔のメイドを務めてみないかと誘いがあった。

 

 日本から来た、高位神魔……

 

 なんだか、おどろおどろしげな気配がして腰が引けていたラナを、呼び出した魔王とのミックス「プリンス」が、心配ないと太鼓判を押した。

 

「なに、決して狂暴な人ではない。若い女性で、最近までごく普通の人間として暮らしていたのだよ。今まで日本国内から出たことがなく、アメリカの生活に不慣れな部分も多々あるはずだ。そこの部分も、補ってあげてほしいのだよ」

 

 D9というコードネームを与えられた彼女の種族は、九頭龍。

 いわゆる「創世の龍」と呼ばれる、この世界を創り出した存在の末裔に当たる、最高位の神魔。

 彼女の身の回りの世話をすることで、ラナにもメリットはある。

 滅多な奴は襲ってこられないはずだ。

「創世の龍」に喧嘩を売ろうという物好きは、そんなにはいないであろう。

 

「だが、本人の性格自体は、温和で無邪気で朗らかだよ。面倒を見てやってくれないか?」

 

 写真を見せられ、エピソードを聞かされ、ラナは一瞬で決断した。

 何と言っても、元が神魔オタクの人間で、神魔の個々の事情にも理解のある人だというのが決定打だった。

 多分、これ以上に条件の良い「主」というのは滅多にいまい。

 

 実際、D9の新居に向かった時、その判断は正しかったことを知った。

 

 まだ真新しい家電が置かれたばかりのダイニングキッチンで、お茶を飲みながら、ラナはD9と面談したのだが。

 

「ラナさん、ブラウニーさんなのね!? わあ、初めて会ったよ!! ええと、じゃあ、毎日ミルクを用意するのが必要だね?」

 

 ラナが切り出す前に。

 その虹色の髪の華やかで色っぽい美女は、そう確認してきたのだ。

 

 一瞬、ラナは感動で胸が詰まり。

 

「よ、よくご存じですね、嬉しいな……」

 

 どの程度要求すべきか迷っていると、D9は更に畳みかけてきた。

 

「私、日本にいる頃からあなた方みたいな人たち――神魔の人たちが好きで、本でよく読んでました。それに、同僚からも言われてるんです。神魔の中には、生きるのに他者の特別な配慮を必要とする存在がいるから、注意してやってくれって」

 

 あ、とD9は何かを考え込んだ。

 

「ミルクより、生クリームを小さめのボウルに入れてあげた方がいいのかな? はちみつは? これからお世話になるんだから、遠慮なく必要なものは言って下さいね」

 

 せっかく神魔同士暮らすんだから、下手な遠慮はしなくて大丈夫ですよ。

 

 そう断言されて、ラナの心は決まった。

 

「あ、あの。毎日、D9さんの手ずから、ミルク一杯を下さると嬉しいです。ただ、その時に条件があって……」

 

「条件? どんな?」

 

「……ミルクを飲んでいるところを、見られたくないんです。見られると、魔力が抜けるから」

 

 ほんのり頬を染めて、上目遣いに、ラナはD9を見た。

 

 神魔の中には、魔力を保持するために、自分自身なり他者なりに、特定の行動をしてもらわないといけない者がいる。

 ラナの場合は――「一杯のミルク」。

 ただし、それを飲み干しているところを他人に見られてはいけない。

 そんな条件が付いていた。

 

「ああ、なら、平日は出勤の前にミルクをコップに注いで、テーブルの上に置いておきますよ。長く家を空ける時は、大きめのボトルにあらかじめ注いでおきますから、そこから飲んでいただけます?」

 

 あまりにあっさり受け入れられた、ブラウニーとしての特殊な条件に、ラナは安堵の胸をなでおろし。

 さっくり、D9の元でメイドをすることに決めたのだった。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 ラナの好みに合わせて買ってくれた、陶器製の、花の絵の描かれた暖かみのあるコップ。

 毎日、そこにミルクが注がれる。

 

 ガレージからD9が愛車に乗って出勤するのを確認してから。

 家付き妖精らしく、お行儀悪く立ったまま、ラナはミルクを飲み干す。

 

「主」にも見せない、ラナのささやかな秘密は、こうして今日も守られる。

 

 頭上を炎をまとった魔王が飛んでも、ラナの毎日は事もなし。