2 彼女の過去と秘密

「おおい!! 新入りちゃん!! 新入りちゃんだろ!?」

 

 そう陽気な声をかけられ、D9は足を止めた。

 

 任務翌日、特別休暇の昼下がり。

 まだ慣れない新しい場所。土地勘をつけるための散歩道で、急に呼び止められた。

 自宅を出てそんなに経っていない。

 

「あれ……ライトニングさん!?」

 

 花壇に水をやっている、ホットパンツの人影を見て、D9は思わず頓狂な声を上げた。

 

 その女は、赤銅色の肌につややかな黒髪の、ワイルドな美人に見えた。

 外見からして、ネイティブアメリカンの血を引いているのに間違いないだろう。

 見据えられると、なんだか世界の外側に連れ出されたような。

 ふと、世界にあるすべてが歌っていることに気付くような。

 そんな、不思議な感覚に陥らせる、神秘的な何かが放射されているかのような深い瞳は、黒の中になんとも不思議な色彩を宿していた。

 緑のような紫のような、それが交互に見えるような、不可思議な色合い。

 そんな神秘的な瞳を持っているのに、表情は妙にからりとしていて、ちょっと蓮っ葉に見えるほどだった。

 不思議なアンバランスさ、それがその女の魅力だった。

 

「新入りちゃん。この辺に住んでるのかい?」

 

 ホースの手元のスイッチで水を止め、ポニーテールにした癖のある黒髪を揺らしながら、ライトニングと呼ばれたその女性は近付いてきた。

 

「ええ、そこのレンガの壁の……」

 

「あ、なんだ、こないだまで空き家だったとこに引っ越してきたのって、新入りちゃんかあ!! プリンスも教えてくれたらいいのに」

 

 気の利かない奴だよなあ、などとけらけら笑うライトニングに、D9はほっとした気持ちになった。

 職場であいさつを交わし、実際に現場でも組んだことがあるこの女性のことは好きだった。

 生き生きと精力的で、明るく豪快。

 まだ慣れないD9に、さりげなく気を回してサポートしてくれた。

 加えて何と言っても、ライトニングの正体。

 かの有名な、サンダーバードだ。

 ネイティブアメリカンに伝わる雷の精霊、空を覆う翼。

 元神魔マニアの人間としては、気にせずにはいられない、かっこいい存在だった。

 実際、彼女の戦う姿はしびれるように魅力的だった。

 敵は彼女の雷をまとった巨躯に手出しができず、そして彼女の呼ぶ落雷に焼かれて、一方的に殲滅させられた。

 

「どう? せっかく近所に住むことになったんだ。ちょっと寄ってかないか? 美味いシフォンケーキ、メイドが焼いてくれてるんだ。食べていきなよ」

 

 白い歯を見せて笑い、ライトニングは、緑の壁の自分の家を指さした。

 D9はちょっとどきっとした。

 友達の家に招かれるだなんて、どのくらいぶりだろう。

 

「いいんですか?」

 

「ああ。新入りちゃんには、個人的に興味がある。大層な神魔の血を引いてるとかそういうんだけじゃなくて、あんたは自分で戦って過酷な人生を生き残ったサバイバーだ。実際、尊敬に値するよ」

 

 自分に興味を持ってくれている人がいるのが嬉しかった。

 それに、D9としても、ライトニングのことが気になっていた。

 かの大いなる雷の精霊サンダーバードが、普段どんなことをしているかは非常に気になるポイントだ。

 

 散歩ならいつでもできるが、こういうタイミングを逃す手はない。

 

「じゃあ、お邪魔します」

 

 招かれるまま、いそいそとD9はライトニングの家に上がり込んだ。

 

 感じのいい家だった。

 石造りの家に木目の美しい木造の壁が貼ってあり、家具もアンティークで揃えた落ち着いたもの。

 もう、ずいぶん長くここに住んでいる様子は、随所から感じられた。

 

 甘くていい匂いのしみこんだダイニングに案内されると、D9の家と同じく、若い女性の姿のブラウニーらしいメイドが、焼き上がったばかりのシフォンケーキに生クリームを添えて出してくれた。

 紅茶が供される。

 

「まあ、あんたの話を、あたしらがプリンスから聞いた時は、正直ねえ、ほんとかよって思ったよ……」

 

 ライトニングは、そんな風に話を切り出した。

 

「創世の龍の末裔がいる、しかも自分がそういう存在とは気づいていなくて、どうも人間の親からは理不尽な仕打ちを受けているらしいってさ。まるで、あたしらに『取ってくれ』って言ってるみたいな上手すぎる話だと思ったね」

 

 紅茶をすすりながら、ライトニングは野卑な様子で椅子に寄りかかり、言葉を紡いだ。

 

「『取って』もらって良かったですよ。私、あの時本当に切羽詰まって、明日をも知れない状態でしたから」

 

 しみじみ答えたD9だったが、あの心細さ自体は思い出せても、かつての飼い殺しのような暮らしのことはぼんやりとしか思い出せなかった。

 古い記録映画を見るような虚ろな「縁遠い感覚」が、霧のかかった川となって、かつての人生と今とを隔てている。

 

「まあ、スカウトに行ったメンバーがちょい不安だったて言うか……。ムーンベルはともかく、あの悪魔の爺様二人はなー、嫌味ったらしくて不興を買うんじゃないかって思ったけど。でもさ、あんたが予想されてたよりずっと物分かりのいいお嬢さんで助かったって、あいつら言ってたよ」

 

 あの二人は、そんなにたちが悪いだろうか、とD9は訝しむ。

 少なくとも初めて会った時から今まで、彼等には嫌な目に遭わされたことがないが。

 世間的な評判の問題かもしれない。

 

 ふと、D9は前々から引っかかっていたことを口にした。

 Oracleの他のメンバーとは何度か話したが、そう言えばライトニングとは話したことがない。

 

「ライトニングさんは」

 

「さんはいらないよ」

 

「ライトニングは、やっぱりスカウトされてOracleに入隊したんですか? 創設メンバーとか?」

 

「……あたしは、スカウト組だな。まあ、しかし、奴らもよくあたしみたいなの、スカウトする気になったもんだよ」

 

「? トラブルでも?」

 

 何か思い起こしたように遠い目をする雷の精霊に、D9は怪訝そうな表情を向けた。

 スカウト時に条件が合わなかったり他の仕事をしていたりして、Oracleにすぐには協力してくれない神魔もいるのだと、情報としては知っている。

 

「……こういうことは、あんまり教えるの遅れると不信感の源になるし、バラしちまおう。あたしさ、Oracleにスカウトされる前は、非合法な仕事をしていたんだよ」

 

 ひゅっと、音を立ててD9は息を吸い込んだ。

 

「非合法な……どういう仕事か、訊いてもいいですか?」

 

 D9の顔色が青ざめたのが面白かったのか、ライトニングは歯を見せてにやりと笑った。

 

「ヤクの売人とかだったら、まだしょうがねえなと思ってくれるんだろうがね。あたしの場合は、殺し屋。ものの例えじゃないよ。『職業的殺人者』だったのさ。人間も、神魔さえ、金になれば殺していたんだよ」

 

 D9はまじまじと目を見開く。

 いわゆる殺し屋など、漫画や小説の中でしかお目にかかったことがない。

 実在するんだというおかしな感慨と、元ごく普通の小市民としての恐怖心がせめぎ合う。

 

「神魔としての、つまりは、サンダーバードの、雷を操る力を悪用してねえ。雷で焼き殺す訳さ。数億ボルトとかの電圧の電流をぶち当ててぶっ殺してた。まあ、端的に言って無敵だった。そらそうだわな、ちょっと強い神魔でも、大抵は死ぬ」

 

 淡々と、自慢するでもなく反応を面白がるでもなく、ライトニングは説明した。

 

「結構稼げてたね。裏社会の人間だの神魔だの、どんな方法でも特定の奴を始末してほしいって奴は絶えなかったからね。でも、そうそう、上手い話はなくってさ」

 

 ふう、とライトニングが天井を仰ぐ。

 狂暴な笑みが浮かんだ。

 

「……だんだん、あたしでもヤバイやつと腐れ縁ができたりするようになった。一匹狼で気楽にいられるって、映画みたいなかっこいい話じゃなかった。あたしを飼おうとするたちの悪いやつに目をつけられてさ。困ってたところを助けてくれたのが、Oracleなんだよね」

 

 D9は心臓がバクバク鳴る音を聞きながら、それでも冷静に考えようと務めた。

 ライトニングは、人間の姿を取れば、ネイティブアメリカンに見える。

 アメリカ合衆国の、最低辺に押しやられている人種だと、D9は知っていた。まともな仕事にも事欠くのが普通らしい。

 そんな彼女が、やむにやまれず手を出したのが、もしかして職業的殺人者の地位なのではないか。

 さすがにこれ以上立ち入ったことは聞きづらいが、例え強力な神魔であっても、社会的圧力の前では万能の神にはなれないのだろうということぐらいは、推測することができた。

 

「……大変でしたね。ライトニングがご無事でよかったです。本当に……いろんな意味で」

 

 それは心底からの言葉。

 目の前の、この素敵で尊敬すべき女性が、生きたまま地獄に落とされないで良かった。

 

「いろんな意味で、か。面白いこと言う子だね、あんたは」

 

 からからと、いつもの陽気さを取り戻した声で、ライトニングが笑う。

 

「安心したところを転ばせるようで悪いんだけど。最近、ちょっと気になることがあってね。あんたみたいな子が、気を付けた方がいいかも知れないことがあるんだ……覚えてるかい、昨日の」

 

 そう言われて、D9はじっとライトニングを見た。

 その目の中に、刃物のような鋭い光が宿っているのを、胸を突かれる思いで見つめながら。