その5 妖怪の祟り

 日常は、蝶がふらりと現れるように、不意に戻ってきた。

 

 瑠璃が紫王に伴われ、清美の運転する車で自宅に帰り着いた時、彼女の家族は崩れ落ちるほどの安堵を味わった。

 

 何せ、今まで無断外泊はおろか、門限破りすらしたこともないような生真面目な娘が、いきなり連絡もなく姿を消したのだ。家族は事件に巻き込まれたことを真っ先に疑い、即座に警察に届け出た。スマホは通じず、知り得る限りの瑠璃の友人にも当たったが、誰も彼女の行方を知らない。

 

 不吉な予感を振り払えない久慈家の面々が、それでも無理やり日常を送らざるを得ない翌日。

 沈痛な予感に苛まれていた久慈家の主婦、夏帆《かほ》のスマホに、行方不明の娘、瑠璃からの着信があったのだ。

 一体何があった、今どこにいるの、と悲鳴のような声で叫ぶ夏帆に、瑠璃は、天椿姫に入れ知恵された通りの「事情」を話して聞かせたのだ。

 

 曰く、学校の帰り道、不審なバンに連れ込まれて山の中に拉致されたこと。これは、嘘ではない。

 曰く、山の中でいたずらされそうになり、逃げ回るうちに崖から転げ落ちた。これも嘘ではない。

 曰く、崖の途中で木の枝にひっかかり、大きな怪我は免れたが、完全に道に迷ってしまい、とにかく人目のあるところを目指して歩き回った。この辺りからは、天椿姫のごまかしだ。

 曰く、やがて陽が傾き、自身も疲れ果てて動けなくなったところを、その神楽森山の所有者である神楽森家の御曹司、神楽森紫王と連れの者に発見された。彼らは、山中に花火をしに来ていたのだ。もちろんごまかしだが、まあ、高校生くらいの子供が周囲に人気のない場所にくる理由としては、不自然ではない。

 曰く、紫王はすぐ同じクラスの生徒だと瑠璃を見分けたが、瑠璃は気絶して倒れており、彼らとやり取りできる状況ではなかった。確かに100%の嘘ではない。

 曰く、紫王は瑠璃を背負って山を下り、身内の車で近くにある実家に連れ帰った。瑠璃の実家に連絡を入れたかったが、瑠璃はスマホをなくしており、紫王も連れの者も瑠璃の個人情報を知らなかったため、連絡することができなかった。妖怪に転生することで命を永らえた、などという瑠璃の事情を隠蔽するためには、仕方ない嘘であろう。

 曰く、瑠璃は少し前に目を覚まし、ホットミルクをもらった後、紫王のスマホを借りて、こうして夏帆に連絡できた――

 

 夏帆は目を回さんばかりに驚いた。

 娘が無事だったというのは勿論だ。最悪の事態が、何度も頭をよぎっていたのだ。

 だが、それに加え……瑠璃を助けてくれた人物というのに、夏帆は肝を潰した。神楽森といえば地元の名士であり、夫である俊雄《としお》の勤務する薬品会社を経営する一族だ。その御曹司である紫王が、瑠璃を助けてくれたのである。

 やさぐれ者に再度見つかるでもない、熊に襲われるでもない、この上なく身元の明らかな発見者。何たる幸運、地獄に仏である。

 

 瑠璃は、これから神楽森の家の者に送ってもらって帰宅する、と母親に告げた。

 神楽森会長ご一家には、よくよくお礼を申し上げなければ……と嘆息したところに、電話口からその「神楽森会長」の声が聞こえてきた。神楽森グループのトップに立つ女帝、神楽森椿《かぐらもりつばき》その人。

 緊張のあまり血の気の引いた夏帆の耳に、穏やかな美声が響いた。

 

 ――危ういところであったが、我が傘下企業で長年勤めて下さっている方のお嬢様が、無事で何よりだった。

 ――見た感じ大きな怪我はないようだが、あのような目に遭われて大変ショックを受けておいでだ。お家にお戻りになられたら、是非十分に休ませてあげていただきたい。

 ――こちらからも、警察に改めて連絡を入れたところだ。お嬢様にうちの息子と配下の者を付き添わせるので、お宅で警察に事情を話していただけると有り難い。

 

 夏帆は重ねて礼を述べ、自らも警察に、娘と彼女を保護した同級生の親御さんから電話があった旨を伝えた。

 その同級生と彼の家の者が、自宅まで娘を送り届けてくれるという話をすると、警察は、そこで娘さんとその同級生の子ともども、事情をお伺いしたい。ついては、事情聴取が終わるまで、御宅にその同級生さんも留まるようにお伝え願えますか、と要請してきた。

 この反応は天椿姫も予測していたものであり、万事彼女の計算通りだった。

 夏帆は、警察に諾と返し、支度を整えて、娘とその恩人を待った。

 

 

「お母さんっ!!」

「瑠璃ぃっ!!!」

 自宅玄関に姿を見せた愛娘を、夏帆は無我夢中で抱き寄せた。

 瑠璃も母親にしがみつく。何だかこんなに強く母親と抱き合ったのなんて、赤ん坊の時以来なんじゃないかな、とちらと思ったりする。

 妖怪の姿から、人間の姿を装うのは、案外簡単な術で、妖怪初心者・瑠璃にもあっさりこなすことができた。従って、どんなに近付いても、家族に正体を見破られる危険はない。

 

「申し遅れました。私は、神楽森家に雇用されている、使用人兼家庭教師のような者でして。この、神楽森紫王さんのお世話をしております」

 清美は「蓮沼清美」と名前の刷られた名刺を夏帆に手渡し、丁寧に一礼した。夏帆も礼を返す。

 普段なら「子供に専属の使用人がいらっしゃるなんて、お金持ちは違うわ……」とでも思ったかも知れないが、今はとてもそれどころではない様子だ。

「どうも。神楽森紫王いいます」

 紫王も、瑠璃の母には敬意を表したいのだろう。いつになく大人しい。単純に夏帆と瑠璃がよく似ているかも知れないが。

 普段だったら、見るからに威圧的なシルバーアクセジャラジャラの紫王など、夏帆は眉をひそめただろう。

 だが、そこは瑠璃の命の恩人。更に、夫の会社を経営する人物の御曹司。

 心からの安堵と感謝を込めた様子で、娘と同い年の少年にも丁重に頭を下げて礼を述べた。

「あの……神楽森さん、蓮沼さん、ありがとうございました。間もなく警察の方が来られますので、中でお待ちいただけますか」

 ようやく落ち着いてきた涙を抑えながら、夏帆は瑠璃を送ってきた紫王、そして清美を、自宅の客間に通した。

 

 間もなく、警察のパトカーがサイレンを鳴らして現れた。

 が、瑠璃は彼らの持ってきた情報を耳にして、呆気に取られることになる。

 

「この中に、あなたを襲った人物はいますか?」

 客間のソファセットに収まった三人連れの刑事のうち一人、中年のがっちりした刑事が、五枚ほどの写真を取り出して、テーブルに並べた。瑠璃は息を呑む。

「この細面の人以外は……私を車に引っ張り込んだ人たちです……」

 青ざめた顔で、何とか瑠璃はそう受け答えた。

「そうですか」

 隣で警察手帳に何事か書きつけている若い刑事にうなずき、彼は再度瑠璃に向き直った。

「実はですね。この五人、今日になって、車で市内の牛淵川《うしぶちがわ》に突っ込んで、全員死んでるんですわ」

「えっ……」

 瑠璃は目を見開く。

「あなたと似たような目に遭ったという被害届が何件かありましてね、捜査線上にこの連中が浮かんでおりまして……今夜にもリーダー格の家に踏み込む手筈だったんですよ。が、昼前になって急に、この五人が同じバンに乗っている状態で、道から外れて川に突っ込んで沈んだまま上がってこず……病院で全員の死亡が確認されましてね」

 瑠璃は、凝然とその刑事を見つめた。

 はたと思い至って、隣に座った紫王を振り向く。彼は、いい気味だというようにニヤリとした。

「目撃者によると、急にバンが道を蛇行しだしたかと思うと、そのまま土手の斜面を降りて、ふらふらしながら川に突っ込んで……ということらしいので、どうも運転していた人間が心臓発作でも起こしたのではないかと見られているのですがね。ま、死因は、現在解剖して調べている最中ですわ」

 

 ふっと、紫王が鼻を鳴らした。

「それってさ、あれじゃねえの? 神楽森山の主の妖怪の祟《たた》り」

 ふっと、刑事が顔を上げた。

「……君は、神楽森山の地主さんの……」

「そ。息子」

 さらっと、紫王は答える。他人事のように。刑事の前だというのに、彼は相変わらずの不良スタイルで、ふんぞり返るように傲然と座っている。瑠璃などいささかぎょっとしてしまうほどのリラックスぶり。

 

「神楽森山の神楽森城の主の天椿姫に祟られたんだよ、この連中。妖怪だって、自分のシマでフザけたことされたら怒るんだろうさ。天椿姫って、女をいじめるような男にゃ厳しいっていうしな。ガキの頃、お袋に聞かされたな、そんな昔話」

 

 紫王のその言葉で、瑠璃は確信した。

 天椿姫は、妖術の大家だという。恐らく、何らかの術を使って、このやさぐれ者たちを死に追いやったのだ。一言で言うなら、紫王の言う通り「妖怪の祟り」という括りになってしまうのだろうが、その実際たるや凄絶なものだ。

 城を出る前に妖艶に微笑んでいた天椿姫を思い出す。

『案ずるな。そなたに危害を加えた者たちは、それ相応の対価を支払うことになろうぞ』

 その時はただの励ましと取って、深い意味を考えなかったあの言葉。

 あんなに美しいのに、怖かった、あの笑顔の意味。

 

「ああ……天椿姫さんが、おじさんたちに変わって犯罪者をどうにかしてくれるんだったら、警察なんかいらなくなっちゃうなあ」

 そんな事情など知る由もない刑事は、はははと呑気な調子で笑った。

 ああ、私も。

 瑠璃は、ゆったり笑う刑事を見てそんな風に思う。

 少し前まで「知らない」側だったんだな。

 

 その後、事件当時着用していた制服を警察に証拠品として提出し――何でも、付着したDNAを検出して、確かにあの連中に襲われたという物理的証拠にするのだそうだ――瑠璃は、一時間あまりの事情聴取から解放されたのだった。

 

「じゃな、瑠璃」

 警察が帰ってしばらく後に、紫王たちも帰っていった。瑠璃は玄関先まで見送りに出る。

「後でPCメルアドの方にメールするから」

 犯人たちの車に置いてきてしまったスマホの通話アプリの代わりに、しばらくの間、PCメールでやりとりしようというのが、紫王と瑠璃の間の決め事になった。

「ありがと。後で妖怪イラスト、アップローダーにアップしとくね」

 瑠璃の妖怪絵の腕前を知った紫王は、よかったら天椿姫のイラストのデータをくれないかとねだったのだ。それに応じたのだが。

「いや。今日は早く休め。多分、お前、自分で思い込んでるよりも疲れてるはずだ。早く、いつもの調子取り戻せよ……って、前と全く同じって訳にゃ、いかねえだろうが」

 紫王の言う通りだった。

 自分はもう、世界に何があるか、限られた視野でしか見ることができなかった、平凡な人間の少女ではないのだ。

 

 祟りが。

 妖術が。

 妖力が。

 

 実際に存在する世界に属する生き物に、なってしまったのだ。

 そう。

 紫王と、同じ。

 

 自分は妖怪なのだ。

 

「怖がらなくてもいい」

 瑠璃の耳元にそっと唇を寄せて、紫王は囁いた。

「お前の今後のことは、お袋がちゃんとお膳立てしてくれる。俺もできることは何でもしてやる。なんせ、亭主だかんな。俺を頼れ」

 そんな言葉に頬を赤らめ、瑠璃は小さく礼を言った。