42 白糸のお繭

「貴様、何者だ。そこで何をしている」

 

 天名がいかにも高位天狗らしい横柄さで誰何する。

 その女――被衣の上からうかがえる体形から、恐らくそうであろうという判断するしかない――は、答えず、萩の茂みから、すうっと開けた場所へ進み出る。

 

「へえ。あの彼女、なかなかやるじゃないか」

 

 真砂が面白そうに、白瑪瑙の指で、彼女のすぐ横の柱にきらめく何かを指し示す。

 

 それは。

 糸である。

 

 普通の人間だったら肉眼で捉えられないようなほどの細さの、その糸は、廊下の照明と差し込む月光の反射で、まるで光を湛えたかのようにちらちらと輝いている。

 それが、いつの間にか、その被衣の女と、真砂、天名の両名の間に、縦横無尽に張り巡らされている。

 

「糸か……なるほどな。絡新婦(じょろうぐも)か」

 

 天名は、取り出した扇も振りづらそうなほどに糸の張り巡らされた空間を睨む。

 扇の先で糸に触れて確認するが、それは野生の蜘蛛の糸ほどにやわい訳ではなく、まるでピアノ線か何かでもあるように、強靭な感触を返して来る。

 まず間違いなく、その糸が張り巡らされた空間に勢いよく放り込まれたりしたら、卵切り器で刻まれた卵のように粉みじんだ。

 

「上空にいたあいつらでは不足とみて、城で飼っているより強力な存在を差し向けた、と。歯ごたえありそうじゃないか」

 

 真砂が面白そうに笑う。

 彼女の羽衣のように纏う雲が、夏の積乱雲のように膨れ上がり、周囲を覆うかのように……

 

 空を裂く音はしない。

 だが、一瞬のきらめきが、膨れ上がった雲に向けて幾筋も放射される。

 雲を突き抜け、更にその奥に突進していく。

 

「腰ぎんちゃくめが!!」

 

 天名が、雲の向こうから、強烈な高温の衝撃波を放つ。

 雲が天界の劇場のように幕を開け、そこから濁流のように放射された高温を含んだ衝撃波は、一瞬蜘蛛の糸を燃え上がらせる。

 だが、敵もさるもの。

 幾重にも折り畳まれた糸が、まるでまるで艶めく絹の白布のように、平面を構成する。

 その白い布に、衝撃波は食い止められる。

 布が焦げて炎が上がるが、それが消えた向こうには、無傷の被衣の女がいる。

 

 いや、無傷ではない。

 被衣は燃え落ちている。

 

「そなたら、強いわなあ」

 

 そこにいたのは、小袖姿の女の上半身に、銀色に紅の縞模様の巨大な蜘蛛の下半身を持つ、おぞましくも美しい人外である。

 組紐で飾った垂髪は黒々と、白い指の先から、きらきらした蜘蛛の糸が四方に伸びている。

 

 そこにいるのは、それだけではない。

 絡新婦に近い大きさの、黒地に銀色の複雑な紋様の大蜘蛛が、顎の間から、これもきらきら光る糸を吐きながら、じりじりと、天名と真砂ににじり寄って来る。

 その数は20は下らないか。

 

「わらわは、白糸のお繭(まゆ)」

 

 絡新婦が名乗りを上げる。

 色白の端正な顔立ちが、禍々しくも妖美な笑みを浮かべる。

 

「そしてわらわの眷属たちじゃ。そなたらを葬るのに、まあ、いささか用心深過ぎるわいな」

 

 紅を引いた端麗な唇が吊り上がり、同時に、お繭の周囲の蜘蛛たちから、真砂と天名に、一斉に網状になった糸が放出される。

 

「へえ、大捕り物ってところだな」

 

 真砂が時代がかった感想を口にするや。

 

「捕まるのは私らでもこいつらでもなく、まぼろし大師だ!!」

 

 天名が空に舞い上がる。

 打ち振られた扇から射出されたのは、きらきらと白い冷気を纏う、超低温の衝撃波。

 それが通り過ぎたところ、庭の端正な萩も、丁寧に育てられた苔も、白く凍り付いて、粉砕された食材のように、微細な粉に帰す。

 蜘蛛たちは、一瞬で体が凍り付いて、真っ白な塊と化すと同時に、衝撃波で粉砕される。

 

「さあて、次は君だね?」

 

 真砂が、纏った雲の津波を、お繭に向けて差し向ける。

 火砕流のように見えるそれは、一瞬でお繭を推し包み、大きな雲の塊となって赤々と輝き出す。

 内部がどんな高温となっているかは推して知るべし。

 

「さて、これで」

 

「やはり強いわな。でもな、ここはまぼろし大師様の領域じゃわいな」

 

 真砂が勝利を確信した瞬間、彼女たちの目の前の空間に、虹色の穴が開く。

 

 ぎょっとした真砂と天名が見据える先に、万色の穴から、無傷のお繭が、八本の肢で歩み出て来る。

 

「……まぼろし大師のまぼろしの影響が、こやつにも及んでいるということか」

 

 天名は苦々しい表情で、それを確認する。

 

「そういうことよ。この子らも、この通り、ほれ」

 

 お繭の背後から、虹色に輝く蜘蛛たちがわらわらと。

 城の建物の屋根に、木立に、周囲の敷石に。

 そいつらは陣を組むように展開する。

 

「おい、上へ……!!」

 

 何かに気付いた天名が叫んだ時には遅い。

 

「がはっ!?」

 

 真砂と天名のいた城の庭は、まったく別の空間に変じている。

 

 冷たい。

 重い。

 息苦しい。

 

 天名も真砂も、いきなり水中に放り出されたなどと、自分の身で体験しても信じがたい思いである。

 

「……!!」

 

 天名の、空中なら自在の翼が、水中で不自由そうにあがく。

 その時。

 

「……!! おい!!」

 

 真砂が沈んでいこうとするわが身を水の中でも浮かぶ雲で保たせていたところ。

 

 水の底から、巨大な虫の顎、まさに桁外れの大きさの、水生昆虫の顎が、真砂と天名を飲み込もうと……

 

「この……!!」

 

 ぶわん!!

 

 と、その空間が揺らいだ気がする。

 

 一瞬で、そこは場面転換していたのだ。

 

「ここは……?」

 

 真砂は、水を吸ったままの衣服を持ち上げながら、周囲を見回す。

 

 そこは、破れ寺のような荒れた庭に見える。

 手入れされていない立木、枯れ草がぼうぼうの地面。

 

 近くには、ぜいぜいと肩で息をしている天名がたっている。

 

「わたしはしばらく動けん!! やれ!!」

 

 天名が指し示す先には、呆然としている、右前肢の折れたお繭。

 

 真砂ははっとする。

 まぼろし大師に近い力を与えられた眷属を倒すには、今しかない。

 

「そら、こういう雲はどうだ!?」

 

 真砂は、ぼんやり光る、形容しようのない色彩の雲を発生させ、お繭を推し包む。

 まるで宇宙が宇宙になる前の塊みたいなその雲に推し包まれ、既にお繭の悲鳴も聞こえない。

 

「こいつは雲は雲でも『無の雲』だよ。何でもあって何でもない、実体以前の混沌さ」

 

 その無の雲が吹き散らされた時。

 そこには、既に「何もなかった」。