9 悪霊の棲む館

「ふむ。ここ、だな…」

 

 礼司は人間の姿をとったまま、その薄暗い影に覆われた空き家を見上げる。

 濃い色のスプリングコートにカットソーとデニム、オックスフォードシューズの私服姿は珍しい。

 

 彼と、彼の率いる(?)オカ研メンバーが集合しているのは、城子市O町の廃墟。

 あの、猫集会で仕入れた情報を元に探し当てた、「柳の大木のある家」。

 

 不気味な廃墟である。

 10年ほど前まで人が住んでいたというから、そう極端に古びてはいないように予想していたのだが、それでも酷い荒れようだ。

 

 敷地の東の端、塀を突き破るように柳の大木がそそり立っている。

 そのせいもあるのか、敷地全体が暗い。

 いや、単に大木の木陰に覆われているから以上の、まるで火事の煙でも漂っているかのような視界の悪さがある。

 

 その空き家自体はごく普通の住宅に見える。

 元は洒落た雰囲気だったのだろう明るい灰色のはずの外壁は、今や年月と正体不明の浸食に痛めつけられて、どよんと闇がのしかかっているかのような暗い印象を周りに放射している。

 まるで普通の住宅地に突如空いた穴だ。

 

「この柳の木は、双炎坊の元の住処だった寺がここにあった時から生えている古木だって言いますからね」

 

 紗羅が眼鏡を指で差し上げながら、ぐるりと草が生え放題の敷地とすすけた建物を見上げる。

 淡い色の春向けトレンチコートをきゅっとウエストで締め、スカートみたいなパンツに、コートと色を合わせたサイドゴアブーツ。

 こちらも珍しい私服でなかなか大人っぽいセンスではあるが、到底着こなしを楽しんでいる風ではない。

 寒々しいその廃屋の空気に厳しい目を向けている。

 

 紗羅は更に続ける。

 

「人間だった双炎坊が自殺してから、持ち主のなくなった寺の敷地建物は、地元の不動産会社の手に渡った。寺の建物は取り壊され、唯一寺の敷地の隅にあった柳の大木だけを残して、住宅地へと転用される。無関係の一家が十数年に渡って住んでいたが……」

 

「……今から大体10年くらい前に、この家の主だった人が急に一家心中を図る。一家全滅。それ以来呪われた家と呼ばれ、買い手もつかぬままこうして放置されている……だっけ?」

 

 紗羅の言葉の後を継いだのは、千恵理だ。

 彼女の私服は、オーバーサイズのオレンジ色のシャツチュニックに、モノトーンの柄レギンスを合わせて、デニム地のスニーカーで締めている。

 遊びに行きそうな私服だが、恐らくいつものようにいつでも抜刀できるのだろう。

 

「……羽倉くんと連絡がつかなかったのが気になりますけど……もしかして、もう中に……」

 

 誠也は、歯がカチカチ鳴りそうなくらいに押し寄せる寒気と戦いながら、胸元の龍神の牙をぎゅっと握りしめる。

 誠也の私服は、ミリタリーグリーンのマウンテンパーカーに薄手のニット、黒のスキニー。

 シンプルなラインの入ったスニーカー。

 この季節だとパーカーの前は開けておきそうなものだが、誠也は霊的な寒さに耐えかねて、ジッパーを引き上げている。

 

 誠也の疑問に、オカ研面子の誰もが顔を曇らせる。

 ああいった忠告はされたが、自分たちも双炎坊に対峙しない訳にはいかない旨を伝え、集めた情報を手土産に共闘を提案するはずだったのだ。

 しかし、羽賀から訊き出しておいた羽倉元喜に連絡を入れても無駄だったのである。

 端末の電源を切っているらしく、電話には出ない、メッセージアプリも無反応。

しまいに自宅住所に直接出向いたが、使用人らしき天狗の男性も、若様が何も言わずに外出してしまって帰って来ないと困惑をにじませていたのだ。

 

「そのことも含めて確認するためにも、中に入るしかないでしょうね」

 

 紗羅は一応は閉めてある空き家の門扉を見やる。

 しかし、ぐるぐる巻きだったのであろう鎖は、「立ち入り禁止」の色褪せた札と一緒に地面に転がっている。

 見た感じからするに、そう遠くない過去に誰かがこの門を開けたのだ。

 

「うむ!! こっちは武装は完璧なんだし、大道くんが尾澤くんのおじい様のところでの特訓で、新しい力を身につけたっていうからな!! まとまっていればそんなに怖がることもないだろう!!」

 

 ひときわオシャレな部長が鼻歌を歌い出しそうな調子でふぁさー、と髪をかき上げる。

 

「ま、僕も準備万端だ。どうせ、裏口からとかなんて意味はないんだろう? さっさと正面突破に限る」

 

 礼司がスタスタと門扉に近づく。

 

「あ、待ってください、部長」

 

 紗羅が彼の前に回る。

 

「閉じ込められないように、門に咒を」

 

 紗羅が錆びた門扉に触れ、次いで不動明王の印を結びながら素早く咒を唱える。

 

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン!!」

 

 見る間に、門扉に赤く燃え上がる不動明王の綱がぐるりと巻き付く。

 不思議なことに、紗羅が門扉を開こうと手を伸ばせば、その綱は緩み薄れる。

 

「さ、みんな、中に入りましょう。この入口をこうして塞げば、悪いものは入って来られませんし、外にも逃げられません」

 

 千恵理が目をぱちくりさせる。

 

「副部長すごーい!! いつの間にか副部長もパワーアップ!?」

 

 紗羅はくすりと笑う。

 

「これでも修業は少しずつ進めてますよ。もし中にすでに元喜くんがいらっしゃるんだとしたら、彼の有利にもなるはず。早まっていないことを願いたいですが、万が一のことがあっては困ります。急ぎましょう」

 

 全員がつぎつぎと門扉をくぐって草ぼうぼうの敷地に入る。

 夏場だったらさぞ蚊に悩まされたのだろうと思わせる敷地の、どうにか玄関に続くコンクリートの小道を見つけて進む。

 紗羅、千恵理の戦闘タイプが前衛、礼司、誠也の搦め手タイプが後衛である。

 

「……みんな……玄関の戸が」

 

 まっさきにそのドアに手をかけた千恵理が息をのむ気配。

 

「開いてる……?」

 

 紗羅がすうっと目を細める。

 

「誰かが、すでに入った後ということだな。やはり、羽倉くんか」

 

 礼司はふう、と優雅にため息。

 

「向こう見ずなおぼっちゃまにも困ったものだよ」

 

 紗羅もつられたように溜息をつき、補足する。

 

「天狗って、概して若いころはこんな感じらしいですね。種族的性格ってやつらしいです。元喜くんみたいに数百年に一度の天才なんて言われていると特に」

 

 千恵理がふと口を挟む。

 

「でも、いくら強くても、自力で妖怪に転生したような怪物は面倒なんじゃない? 一応きちんとした修業したことあるんでしょその元人間」

 

 紗羅はうなずく。

 

「そうです。どのくらい手下を蓄えているかわかりませんからね。急がないと」

 

 彼女はドアに手を掛ける。

 

「入りますよ」

 

 ドアが開かれた、その瞬間。

 

「!? えっ……うわっ……え……? み、みんな!?」

 

 誠也は、いきなり何も見えない真っ暗な場所に放り出されて思わず叫ぶ。

 

 周囲には誰もいないのが冷えた空気でわかる。

 物音もしない。

 誰かが生きて動いているなら伝わってくる生命の騒々しさがまるでない。

 無限の穴倉に一人で放り込まれたように、何も伝わってこない。

 暗黒。

 沈黙。

 

 気が遠くなりかけた誠也だが、どうにか自分を叱咤する。

 落ち着け、落ち着いて状況を見るんだ。

 

 目を凝らす。

 段々目が暗闇に慣れてくるにつれ、そこががらんとした広い部屋だと気づく。

 

 これは……入った、あの一見普通の住宅の一室だろうか?

 畳敷きの和室、のようだ。

 床の間らしきものがうすぼんやりと……。

 

 その時。

 

 床の間の前に、人影があるのに、今更誠也は気づいて飛び上がらんばかりに驚く。

 

『よう来たのう、大道誠也。待っておったぞ』

 

 それは、闇に沈み込むような僧衣をまとった人影である。

 テレビで、有名な寺院の行事などが中継されている時にちょっとだけ見かける、高くそびえ立つような帽子をかぶっている。

 

 誠也は息をのんで飛び退る。

 一体、いつからいたのか。

 この人は、まさか。

 

『ところでのう』

 

 その僧衣の人影が顔を上げる。

 誠也は悲鳴を飲み込む。

 その顔に当たる部分、それは、まるで巨大なパンチ穴を穿たれたように、ぽっかり穴で何もないのだ。

 しかし、声はどこからともなく聞こえ、視線が自分に向いていることを、誠也ははっきり感じ取る。

 

『お前の体を、返してくれんか。正確に言えば、わしの体よ』

 

 いきなりの言葉に、誠也が咄嗟に意味を取りかねた瞬間。

 誠也の足元の闇から、青黒く輝くような「何か」が、間欠泉のように噴出して、誠也を縛り上げたのだ。

 

 誠也は絶叫する。

 必死に身をよじるが、その全身に絡みつく「何か」は、まるで緩まない。

 生き物の死体に触った時のような、嫌な冷たさがじわじわ全身を浸食する。

 

『返せ返せ小僧。わしの体よ』

 

 げらげら笑うその怪物に、意味の分からぬその言葉に、誠也は恐怖と混乱に翻弄されるしかできなかったのだった。