それは、巨大な水晶を削り出した卵……に、見えた。
並みのサイズの人間なら数十人詰め込めるのではないかという大きさの卵だ。
妖しく仄光る森を抜けた先、鏡のような池というか湖というか、迷う程度の大きさの水の上に、その卵は浮かんでいた。
内部には、人影があった。
いや。
正確には、人ではない。
妖魔だ。
きらきら光る水晶のような羽毛の翼、そしてダイヤモンドをはりつけたような輝く蛇の下半身。
そして、上半身の人間の女性の姿は、この上ない絶世の美女だ。
零の色違いみたいだな、と、和可菜は感想を抱いた。
「この人が、波重大霊《なみかさねのおおち》なんだね?」
和可菜は、《《水の上に立ったまま》》、零に尋ねた。
「ああ。この方こそ、妖力随一といわれた波重大霊《なみかさねのおおち》様だよ」
零は万感胸に迫るものがあるのだろう。
じっと、自らの祖を見つめていた。
水に接した蛇の下半身から、さざなみが広がる。
「和可菜。霊羽銃であの卵を撃って。あの方に傷はつかないはずだから、思い切って」
促され、和可菜は銃を構えた。
多分、零の言う通り思い切ったほうがいいのだろうと判断し、卵の真ん中、封じられている波重大霊《なみかさねのおおち》の腹のあたりを狙って、一気に連射した。
激しい光が透明な卵を走り抜け。
輝く稲妻のようなひびが走ったと思った矢先、卵は粉々に砕け散った。
光そのもののような翼が、いつくらいぶりになるのか、空気を捉えた。
零が、その存在の名前を呼んだ。
喜びのうめきをあげるその存在の美しさに気をとられる和可菜に、「彼女」は微笑みかけた。
「和可菜、あなたが来てくれることは知っていました。ありがとう、わが解放者」
森全体が波重大霊《なみかさねのおおち》の言葉と共に輝き、光る魚、手足のついた卵、浮遊する鏡が天を渡っていた。
「約束です。あなたの望みをなんでも叶えましょう」
和可菜が喜び勇んで口を開こうとした矢先。
「復活しおったか、波重大霊《なみかさねのおおち》……!!」
まるで甲冑をまとったかのような美丈夫が、そこに出現していた。
いや。
あれは、ある種の虫のような甲殻だ。
赤黒く輝き、背中には深紅のステンドグラスのような翅が広がる。
波重大霊《なみかさねのおおち》は。
彼を見て、ただ微笑んだ。
「お久しぶりですね、亜血殻神王《あちがらしんのう》。私を封印した時以来です」
ころころと笑い声を浴びせられ、亜血殻神王《あちがらしんのう》と呼ばれた彼女の宿敵は、ぎりりと歯を食いしめた。
◇ ◆ ◇
長い道のりだったような気がする。
わけのわからない迷路のような森を抜け、修哉と天虫は、ようやく波重大霊《なみかさねのおおち》が封じられているという池にたどり着き。
そこで――唖然とすることになる。
「そなたらも、ここに来い」
彼らの主、亜血殻神王《あちがらしんのう》が、渋い顔で宿敵のはずの波重大霊《なみかさねのおおち》、そしてその配下の二人、和可菜と零と共に《《池の上に立って招いていた》》。
「あっ、亜血殻神王《あちがらしんのう》様……ッ!!」
どうも、まるで戦おうとしていない主の様子に、そしてさっくり復活してしまっている宿敵のくつろいだ様子に、修哉はむしろ動転した。
一体、どうなっている。
「ねえ、ちょっと来てよ。多分、《《あなたがたが思ってたのと》》、《《だいぶ事情が違う》》と思うよ」
そんなことを言われて、ふらふらと、修哉は池に足を踏み出し。
《《沈みもせず》》、《《異教の救世主みたいに池の真ん中まで来た》》。
「どういうことですか、亜血殻神王《あちがらしんのう》様。波重大霊《なみかさねのおおち》が復活しては、現世も異界も終わりだと……!!」
「はあ? ああ~、そういうことになってたわけか。そりゃ、私を殺そうともするわよねえ。警官なのに狂暴な人だなと思ったら」
義務感に駆られての犯行ってわけね、ハイハイ。
そんな風に和可菜に言われて、思わず、修哉は天虫を見た。
天虫は……困惑というより混乱といった様子で、主、宿敵、その配下、そして相棒という具合に、ぐるぐる視線をさまよわせている。
「亜血殻神王《あちがらしんのう》の臣下の方々がおいでになったところで改めて申しますが、私は現世の征服も、異界の征服も考えておりませんよ。ひどい濡れ衣はおやめください、亜血殻神王《あちがらしんのう》」
波重大霊《なみかさねのおおち》がきっぱり断言する。
「昔のように、異界と現世の両方を巻き込んだ大戦争をまたやるのですか? その結果がどんなありさまか、よくご存じでしょうに」
詰め寄られ、亜血殻神王《あちがらしんのう》がうめく。
「今の現世は、昔と違って複雑です。一回破壊したら、昔のようには立ち直れないかもしれません。私は、そのような破壊的なことはすべきでないと考えています。大切なのは、継続的な両世界の繁栄です」
そんな、と、修哉が膝をついた。
「思ってた人と違う……むっちゃまともじゃねえか……!! だましたな……!!」
かっとしかけた修哉に、ねえ、と零が声をかけた。
「いや、あなたの主は、あなたをだましたわけじゃないんだ。これは、全部誤解の産物なんだよ。昔、戦争したのは事実だから、そこから推測してしまったんだね」
よりにもよって、殺そうと襲いかかった相手に、自分が今しも離れようとした主をかばわれ、修哉は水をぶっかけられた顔になる。
「う、うむ……修哉も、天虫もすまぬ……わしはてっきり、波重大霊《なみかさねのおおち》が考えを変えていないものだと」
そなたらに命じた件は取り消す。
今後一切、宇留間和可菜にも、兼西零にも、そして波重大霊《なみかさねのおおち》にも、危害を加えてはならぬ。
「……あたしの緊張って……」
あまりの挫折感にがっくりしている天虫に、なんだか和可菜は気の毒な思いさえ抱いた。
「そもそも……その、あたし、この人のことたしかに、殺して……」
「ああ、波重大霊《なみかさねのおおち》様から、新しい命送られてきてたのー!! ごめーーーん!!」
ハハハと照れ隠しに笑う和可菜の前で、天虫はごぶごぶと水に沈んでいこうとする。
「過去のことを蒸し返してもきりがありませんよ。今後のお話をしましょう、亜血殻神王《あちがらしんのう》」
そう元宿敵にうながされ、亜血殻神王《あちがらしんのう》は、きまり悪そうにうなずいた。
「ああ……その前に」
波重大霊《なみかさねのおおち》は、和可菜に向き直る。
「あなたの願いを叶えねばなりませんね。何を望むか、決まっていますか?」
優しく微笑まれ、和可菜はニパッとした太陽のような笑みを返し。
「《《私を》》、《《このまま》》、《《二つの世界に関われるようにして》》!!」
驚く妖魔たちと元ライバルたちを尻目に、和可菜はますます高らかに笑った。
◇ ◆ ◇
「はい、これが君の分の献本!!」
昼下がりの公園のベンチ。
和可菜は、新しい兼西零の作品を、警官の制服の修哉に押し付けた。
「悪いな……へえ」
ぱらぱらと、修哉はその本をめくる。
それは、「異界」の存在を知り、二つの世界を行き来しつつ、調和の道を探るある女性の物語。
細部を変えてあるが、和可菜がモデルだということは、修哉にはあまりにも明らかだ。
「少しずつだけど。異界のこと、現世の人間にも教えていったほうがいいだろうって、波重大霊《なみかさねのおおち》様が」
「だろうな。多分、いつまでも隠し切れねえだろ」
ああ、そうそう、と付け加える。
「零の野郎とは、うまくいってんのか?」
鳩が豆鉄砲をくらった顔になる和可菜に、にやりと意地悪い笑みを見せる。
「週刊誌にすっぱ抜かれてたじゃねえか。『美男作家・兼西零のマンションに通う、年上通い妻!!』とか」
ああ~~~、ええ~~~、とか、奇妙な声を出していたが、やがて和可菜は覚悟を決めたようだった。
「うん!! ま!! 幸せかな!! いろんな意味でね!!」