噴出する溶岩のように迫ってくる涼の大顎を、アマネとエヴリーヌはすんでのところで避ける。
大振りされた巨大な前脚の鎌が、手近のビルを粉砕する。
アマネとエヴリーヌは、それぞればらばらに逃げる。
すでに、恒果羅刹を追っている場合ではない。
涼は陰火の目をごうごうと燃え上がらせながら、奇怪な絶叫と共に襲い来る。
どろりとした、黒い炎じみた吐息が、エヴリーヌに向けて吐き出される。
咄嗟に魔法の障壁を張った彼女の目前で、死をもたらす吐息はきらきら光る粒となって消滅する。
しかし、涼はすでに諦めるということを知らない。
骨の胴体に詰まった、どろどろした炎が、無数に伸びあがっていく。
先端が切れる。
火の粉のように、炎が散る。
いや、炎ではない。
鋼色に輝く、無数の何かに分裂する。
……虫だ。
弾丸のような質感の、甲虫である。
それが、唸りを上げて空中を埋め尽くし、アマネとエヴリーヌに突進してくる。
苦痛の悲鳴。
間近で散弾銃で撃たれたように、アマネとエヴリーヌの血肉が削れ、盛大に出血している。
衣装があちこち破れ、むき出しになった肉は鉄棒で削られたように抉れ、鮮血が噴き出している。
「涼!! やめなさい!!!」
鋭い声が追いついてくる。
闇路が、アマネとエヴリーヌを庇うように立ち塞がるが、相変らず涼は、彼をも識別しない。
弾丸虫はぶんぶん唸りながら飛び交い、まるで一塊の生き物のように闇路にもなだれ落ちる。
咄嗟に太刀を振るった闇路も、全部は防ぎきれず甲冑が砕け、皮膚が一部抉られる。
「うぬらに、勝ち目はすでにない。それとも、この涼とかいう哀れな若造を殺すかの? それができれば、楽にはなるぞ?」
露骨な挑発に、闇路が珍しく動揺する。
アマネ、エヴリーヌに視線を走らせる。
彼女たちがそれしかないと思い込むかも知れないという懸念。
「舐めるなよ、コソ泥風情が」
振り向かれた涼の前脚をかわし、アマネが問答無用の衝撃波を放つ。
咄嗟に張り巡らせた障壁で衝撃波を受け切った恒果羅刹だが、立て続けの第二波、第三波にその場で釘付けにされる。
いきなり押し寄せた極低温の衝撃波のせいで、周囲が一気に冷え込む。
寒気の全部は防ぎきれず、恒果羅刹の泥のような表皮に白い霜が下りる。
「エヴリーヌ!! さっさと『マリー=アンジュ』のコントロールを奪え!! 闇路は、涼を抑えておけ!!」
危機ではあるが、これはチャンスでもあると、アマネは正確に見抜いていたのだ。
涼のコントロールのために、恒果羅刹はそちらに集中する。
涼を闇路に抑えさせ、アマネが恒果羅刹に間断なく攻撃し続けて動けなくし、その隙にエヴリーヌが「マリー=アンジュ」の支配権を奪う。
恒果羅刹は、戦術を誤ったのだ。
相手側が手出ししづらい状況を作り上げるつもりで、逆に自身が動けなくなる罠に陥った。
エヴリーヌが魔力の全てを集中する。
恒果羅刹の右腕の石化が、肩近くまで進行したのが見分けられる。
衝撃波がすかさず飛び、恒果羅刹を弾丸のように弾き飛ばし……
「オオオオオオオオオォォォォオオオオォォォォォォォ!!!!!」
絶叫が、恒果羅刹の口から迸る。
同時に、涼が空に向け咆哮する。
その巨大な全身を覆い隠すほどの、無数の鋼の虫が周囲一帯を埋め尽くす。
それが、音速を超えるのではと思われる速度で一帯を薙ぎ払う。
残りのビルは巨大なミキサーの如き虫の群れに削られ、砂礫となって崩れ去る。
まるでクレーターのように、地面には巨大な穴が穿たれる。
空間を削り落としたようなその場には、恒果羅刹と涼以外、何も残らない。
「ふわははははは!! やはり、この恒果羅刹の勝ちよ!! 『マリー=アンジュ』は、それがしに味方したわ!!!」
誰も聞く者のない勝利宣言。
空の風が通り過ぎる。
耳に痛いほどの、静寂の気配。
もはや、ここに生命はない。
ざく、という軽い音。
違和感を感じた恒果羅刹は、思わず顔を下に向けた。
いつの間に、そんな風になっていたのか。
胸の真ん中、やや左よりに、何か細長いものが生えている。
太刀の切っ先だ。
そう思うより早く、変化は訪れる。
「あーあ、ようやく取り返したわあ。ママに返す前にキレイにしなきゃ」
あまりに無造作に、エヴリーヌが恒果羅刹の右腕を折り取る。
ものの例えではない。
まるで子供の作った厚紙細工を壊すように、いつの間にか彼の右側に立っていたエヴリーヌはその右腕を折り取ったのだ。
ぱきん、と軽い音がして肘の辺りから腕が砕ける。
ばらばらと水晶質の砂に変じる腕だったものの間から、エヴリーヌは恐ろしいほどの青に輝くダイヤモンドを掴みだす。
葬ったのではなかったか、という疑念を抱く暇すらも、恒果羅刹にはない。
視界が急激に歪む。
全身に違和感というか、かつて取ったこともない形態に押し込められるような不快感。
体の突端から、何かが抜けていく。
自分の体が、猛烈な勢いで裂け、変形し、一瞬の後に腐汁と化していくのを、恒果羅刹は……
「失せろ外道。お前の居場所はこの世にないわ!!」
振り返りもできないうちに、凄まじい衝撃波が、彼の最期の意識も、どろどろになった肉体も、吹きとばした。