3-8 恒果羅刹の最期

 噴出する溶岩のように迫ってくる涼の大顎を、アマネとエヴリーヌはすんでのところで避ける。

 

 大振りされた巨大な前脚の鎌が、手近のビルを粉砕する。

 

 アマネとエヴリーヌは、それぞればらばらに逃げる。

 すでに、恒果羅刹を追っている場合ではない。

 涼は陰火の目をごうごうと燃え上がらせながら、奇怪な絶叫と共に襲い来る。

 どろりとした、黒い炎じみた吐息が、エヴリーヌに向けて吐き出される。

 咄嗟に魔法の障壁を張った彼女の目前で、死をもたらす吐息はきらきら光る粒となって消滅する。

 しかし、涼はすでに諦めるということを知らない。

 骨の胴体に詰まった、どろどろした炎が、無数に伸びあがっていく。

 先端が切れる。

 

 火の粉のように、炎が散る。

 いや、炎ではない。

 

 鋼色に輝く、無数の何かに分裂する。

 

 ……虫だ。

 

 弾丸のような質感の、甲虫である。

 

 それが、唸りを上げて空中を埋め尽くし、アマネとエヴリーヌに突進してくる。

 

 苦痛の悲鳴。

 間近で散弾銃で撃たれたように、アマネとエヴリーヌの血肉が削れ、盛大に出血している。

 衣装があちこち破れ、むき出しになった肉は鉄棒で削られたように抉れ、鮮血が噴き出している。

 

「涼!! やめなさい!!!」

 

 鋭い声が追いついてくる。

 闇路が、アマネとエヴリーヌを庇うように立ち塞がるが、相変らず涼は、彼をも識別しない。

 弾丸虫はぶんぶん唸りながら飛び交い、まるで一塊の生き物のように闇路にもなだれ落ちる。

 咄嗟に太刀を振るった闇路も、全部は防ぎきれず甲冑が砕け、皮膚が一部抉られる。

 

「うぬらに、勝ち目はすでにない。それとも、この涼とかいう哀れな若造を殺すかの? それができれば、楽にはなるぞ?」

 

 露骨な挑発に、闇路が珍しく動揺する。

 アマネ、エヴリーヌに視線を走らせる。

 彼女たちがそれしかないと思い込むかも知れないという懸念。

 

「舐めるなよ、コソ泥風情が」

 

 振り向かれた涼の前脚をかわし、アマネが問答無用の衝撃波を放つ。

 咄嗟に張り巡らせた障壁で衝撃波を受け切った恒果羅刹だが、立て続けの第二波、第三波にその場で釘付けにされる。

 いきなり押し寄せた極低温の衝撃波のせいで、周囲が一気に冷え込む。

 寒気の全部は防ぎきれず、恒果羅刹の泥のような表皮に白い霜が下りる。

 

「エヴリーヌ!! さっさと『マリー=アンジュ』のコントロールを奪え!! 闇路は、涼を抑えておけ!!」

 

 危機ではあるが、これはチャンスでもあると、アマネは正確に見抜いていたのだ。

 涼のコントロールのために、恒果羅刹はそちらに集中する。

 涼を闇路に抑えさせ、アマネが恒果羅刹に間断なく攻撃し続けて動けなくし、その隙にエヴリーヌが「マリー=アンジュ」の支配権を奪う。

 恒果羅刹は、戦術を誤ったのだ。

 相手側が手出ししづらい状況を作り上げるつもりで、逆に自身が動けなくなる罠に陥った。

 

 エヴリーヌが魔力の全てを集中する。

 恒果羅刹の右腕の石化が、肩近くまで進行したのが見分けられる。

 衝撃波がすかさず飛び、恒果羅刹を弾丸のように弾き飛ばし……

 

「オオオオオオオオオォォォォオオオオォォォォォォォ!!!!!」

 

 絶叫が、恒果羅刹の口から迸る。

 

 同時に、涼が空に向け咆哮する。

 その巨大な全身を覆い隠すほどの、無数の鋼の虫が周囲一帯を埋め尽くす。

 それが、音速を超えるのではと思われる速度で一帯を薙ぎ払う。

 

 残りのビルは巨大なミキサーの如き虫の群れに削られ、砂礫となって崩れ去る。

 まるでクレーターのように、地面には巨大な穴が穿たれる。

 空間を削り落としたようなその場には、恒果羅刹と涼以外、何も残らない。

 

「ふわははははは!! やはり、この恒果羅刹の勝ちよ!! 『マリー=アンジュ』は、それがしに味方したわ!!!」

 

 誰も聞く者のない勝利宣言。

 空の風が通り過ぎる。

 耳に痛いほどの、静寂の気配。

 もはや、ここに生命はない。

 

 ざく、という軽い音。

 

 違和感を感じた恒果羅刹は、思わず顔を下に向けた。

 いつの間に、そんな風になっていたのか。

 胸の真ん中、やや左よりに、何か細長いものが生えている。

 

 太刀の切っ先だ。

 

 そう思うより早く、変化は訪れる。

 

「あーあ、ようやく取り返したわあ。ママに返す前にキレイにしなきゃ」

 

 あまりに無造作に、エヴリーヌが恒果羅刹の右腕を折り取る。

 ものの例えではない。

 まるで子供の作った厚紙細工を壊すように、いつの間にか彼の右側に立っていたエヴリーヌはその右腕を折り取ったのだ。

 ぱきん、と軽い音がして肘の辺りから腕が砕ける。

 ばらばらと水晶質の砂に変じる腕だったものの間から、エヴリーヌは恐ろしいほどの青に輝くダイヤモンドを掴みだす。

 

 葬ったのではなかったか、という疑念を抱く暇すらも、恒果羅刹にはない。

 視界が急激に歪む。

 全身に違和感というか、かつて取ったこともない形態に押し込められるような不快感。

 体の突端から、何かが抜けていく。

 自分の体が、猛烈な勢いで裂け、変形し、一瞬の後に腐汁と化していくのを、恒果羅刹は……

 

「失せろ外道。お前の居場所はこの世にないわ!!」

 

 振り返りもできないうちに、凄まじい衝撃波が、彼の最期の意識も、どろどろになった肉体も、吹きとばした。