1 思い出と幻

『ばあちゃん。きれいな石』

 それは、宇津《うづ》チカゲ五歳の頃の思い出。

 ツインテールの幼子が、光るのどかな海の波打ち際に、見付けた蒼い石。

 瑪瑙なのか、半透明の蒼に、ぽつぽつと銀色の丸い内包物が見えるそれは、さながら宇宙を切り取ったような神秘性を備えていた。

 大人の掌にはすっぽり収まってしまうそれは、幼子からすれば握り拳より大きかった。それを得意げに掲げる幼子に彼女の祖母が笑い掛ける。

『おう、ちっちゃん、いいもん見付けたねえ。そんなにきれいな石、滅多に見付かるもんでないよ。きっと授かりものだから、大事にしな』

 元気よく『うん!!』と頷く少女の頭上で、北国の短い夏の陽が輝き、かもめの白い翼が一瞬影を落とした。

 

 

 プリーツスカートから伸びた、すらっとした健康的な脚が、リズミカルにアスファルトを蹴る。

 ブレザーの制服に身を包んだ女子高生が、学生カバンを片手に、洒落たリュックを背中に道を急ぐ。

 サイドバングを長めに取ったショートヘアが、ビスクドールじみた、睫毛の長いくっきりした顔を彩る。一見おしとやかそうに見えるが、弾丸のように道を急ぐ動きは抑え切れないエネルギーを感じさせる。

 高校二年生になった宇津チカゲは、学校の正門には向かわず、脇道に逸れ、校舎の前庭を覆う割と高さのある塀に向き合った。

「せーのっ!!!」

 跳躍。

 塀の上端に取り付いての空中前転。

 翻るスカート。

 そして見事な着地。

 植え込みの向こうに見える正門を、生活指導の教師に怒鳴られながら慌ただしくくぐる真面目な(?)生徒たちを尻目に、チカゲは余裕をもって校舎の登校口に飛び込んだ。

 

「おはよチカゲ。今日も石持って来た?」

 2-Aの教室、チカゲの前の席の坂下菜穂《さかしたなほ》が、チカゲに話しかけてくる。ロングヘアにカチューシャの大人っぽい娘である。

「持って来たー。あたしのお守りだもん、これだけは絶対忘れないよー!!」

 チカゲは、和風の小花柄の巾着のようなものを取り出し、中から子供の握り拳くらいの石を取り出した。

 机の上で窓からの日差しを浴びるそれは、半ば透き通った蒼い石の中に、銀色の別の石が星のように散りばめられた風変わりな印象の天然石だ。

「ほんと、これは大事にしてるよねチカゲ。絶対持ってくるもんねー」

 菜穂に問われれば、

「うん。なんつーか、この石の方から私についてきてくれてるみたいに思えるんだ。絶対、部屋の机の上に忘れた!! と思って、学校に着いたらリュックの中から出てきたりさあ」

 と思い返すチカゲである。

「えっ、なにそれ、マジならなんか怖いんだけど!! これ、何かいわくつきの石とかじゃないよね!?」

「まさかあ。ばあちゃんの家の近くの浜辺で拾った石だよ。いわくなんかあるわけないよ、ずっと海の中にあったのに」

 そう、これは長年潮に洗われ、奇跡的な偶然の末に、チカゲと出会った石。

 祖母の地元では、海で拾うこういう石は、神様からの贈り物だとされている。

 特別な、チカゲだけの石。

 この石を拾ってから、割といいことがあったように記憶している。

 だから、大切な私のお守りだ。

 

 ふと。

 チカゲは、恐ろしい悪寒を感じて振り向いた。

 まるで冷たい刃物でざくりと刺されたようなぞっとする違和感が、頬のあたりから全身に走り抜ける。

 視界に入ったのは、廊下側の窓から見える、無人の廊下――

 いや。

 一瞬だが、誰か窓枠の外側に消えた。

 ほんの瞬間的によぎる影にしか見えず、誰とも判別が付かなかったが、誰かいたのは確実。そして、そいつはチカゲを見ていた。あの、物質のような密度の恐ろしい視線は、確かに自分に向いていた。

 

 ……なんだろ。

 誰、今の!?

 

 違和感を気のせいと見逃せないチカゲの耳に、始業を告げるチャイムの音が聞こえた。

 

 緩慢に、時間は過ぎ去っていく。

 四時限目は古典だったが、担当教諭が所用で不在のため、自習になった。

 チカゲのクラスでは、真面目に自習する生徒とだらける生徒が半々くらいの割合だ。

 チカゲ自身は一応マジメにやる……つもりだったが、問題集を開いて20分もすると、何となくシャープペンを使う手が止まる。

 ……すぐ脇の、中庭に面した窓から外を眺めたのは、本当になんとなくだ。

 この季節、瑞々しい緑が生い茂る中庭を眺めるのは、目にもいいよね、と自分に言い訳するまでもなく、綺麗な緑は心安らぐ。

 はず、だったのだが。

 

『なにあれ』

 

 ぎょっとして、チカゲは声もなく固まった。

 藤棚の端と、フェンスの間に、「それ」はうごめいていた。

 一言で言うならそれは、「巨大な葉っぱを組み合わせて作ったような、四足獣らしいフォルムの何か」だ。

 もっと小さければ、それは子供が遊びで作った不格好な葉っぱの犬、だっただろう。

 しかし、藤棚やフェンスとの比較からすると、どう考えても大型の犬くらいの大きさはある「それ」は、奇妙に軽やかな動きで、次々にフェンスの穴をくぐっていった。

 一匹、二匹、と、思わずチカゲはその数を数える。

 少なくとも、五匹はいる。

 

 チカゲの頭の中にわんわんと警報が鳴り響く。

 なんだ、あれは。

 バケモノ?

 バケモノが学校にいる???

 っていうか、これは現実??

 

 チカゲは無理矢理「それら」から視線をひっぺがし、首をぎぎぎっと正面に向けてから素早く視線を手元に落とす。

 目の前の菜穂の背中は平静で、何かを筆記している時に特有の微細な揺れを見せているだけ。

 彼女はあれを見ていない。

 きょろきょろと教室を見回すに、自習している者もだれている者も、誰一人として変なものを目撃した様子ではない。

 心臓の音がやけに大きく聞こえる。

 あれは……

 

 再び視線を中庭に戻すと、そこにはすでに何もない。

 花も盛りの藤棚、花に纏い付く黒っぽい蜂、微かな風に揺れる緑以外、何も見えない。

 

 あれは。

 なんだったんだ、あれは。

 

 恐怖と混乱の渦に孤独に突っ込まれたまま、チカゲは今の出来事を反芻していた。

 

 

 放課後までは、あっと言う間。

 チカゲは校門の前で菜穂と別れると、学校の敷地をぐるっと囲む塀に沿って裏に移動し、丁度中庭に続くフェンスから繋がる、ささやかな雑木林に回り込んだ。

 別になんてことのない、使い道がないから放置されたような場所。昔はもっと広く、それでもっともらしい怪談が語り継がれていたりしたらしい。だが、そこを挟んで反対に講堂が出来上がって、鬱蒼とした森のようだったその場所が大幅に削られてからは、それらしい噂も自然消滅してしまった。昼なお暗い、などと表現するには、絶対的に広さが足りない。数歩で横断できてしまうのだ。

 

 恐る恐る、チカゲはその雑木林を覗き込んだ。

 まだらの木陰にぼんやり浮かび上がるのは、何の変哲もない、絡み合ったイラクサの下生え。なにも、興味を引くような面白いものはない。

 

『なにやってんだろ、あたし』

 なんだかにわかにバカらしくなって、チカゲは溜息を落とした。

 どう考えても、自習の時間に見たあんなものは、寝ぼけたゆえの幻覚か何かに決まっている。それにしてもシュールな幻覚ではあったかも知れないが、寝ぼけた時に見る幻なんてそんなものではないか。それを、さも現実にあったかのように真に受けるなんて、自分はどうかしている……。

 

「……かえろ……? !?」

 振り向きかけて、チカゲはぎょっとした。

 雑木林の奥の暗がりから、何かが飛び出して、跳ねるような動きであっという間にチカゲを取り囲んだ。

 

 それは5~6体の――「あの」化け物だった。

 冗談みたいに大きな葉っぱを、丸めたり曲げたり突き刺したりして作ったような、あの、葉っぱを組み合わせた化け物。顔と胴体部分は、それぞれ大きな葉っぱを円筒状に丸めて繋げたような形であり、四肢に当たる部分はそれより小さな葉っぱを段々に重ねたような形に作られている。

 それが、本当に野犬か何かのように自立して動いているのだ。

 たちの悪い悪夢としか思えない光景に、チカゲはひゅっと息を呑んだ。現実感が失われ、色彩が薄れると同時に、その動きはくっきり見えた。

 

 その中の一匹が、それこそ葉擦れのような音を立てながら、一気に突っ込んで来た。

「ひぁっ……!!!」

 チカゲは飛び退く。そいつの鼻先に引っ掛かった制服のスカートが、剃刀で切られたようにスッパリ切れていた。

 チカゲは気付いた。

 この葉っぱの獣どもを構成する葉っぱは、ただの葉っぱではない。異様な鋭さを持った刃物に比肩する。こいつら、全身葉っぱでできた滑稽な化け物どころか、全身が凶器なのだ。

 

 次の獣が飛んできて、チカゲはまたもやギリギリでよけた。

 が、その拍子にバランスを崩してしまい、背中から転倒する。上がちょっとだけ開いていたリュックから、例のお守りの石の入った巾着袋が飛び出し、石がはみ出して光った。

 

 ぶわりと。

 なにか、見えないものがチカゲの全身を覆った。

 チカゲを中心に渦を巻く輝く風のような何かに押されて、葉っぱの化け物がたたらを踏んで後ろに下がった。

 

『なに? なになになに???』

 

 チカゲは愕然とした。

 いつの間にか、チカゲの体を覆っているのは、着慣れた制服ではなかった。

 古い時代の女学生みたいな、青い椿《つばき》の模様の振袖袴にブーツ、和パンク風のコルセット。

 そして、蒼い石を研ぎ出したかのような、幅広の石の刀が、チカゲの華奢な手に握られていた。

 髪の色も目の色も青銀の、魔人とも言うべき存在が、そこにはいた。