「どうもおかしい」
悠然と大輪の花のような翼を広げて空を行きながら、アマネはこぼす。
白々とした光が満ちる空。
箱根の深山を抜けても、この高度なら風は清々しい。
上空の強い風にそれぞれの翼を乗せ、アマネとエヴリーヌは、東京に戻ろうとしていた。
「……何か気になるの? 賢いお姫様。お姉さんに推理を聞かせてみなさい」
エヴリーヌが少し距離を寄せてくる。
「……あの吸血鬼だが。本当に奴がマリー=アンジュを盗み、あの怪物を生み出しているのか? それにしては不自然な態度だな」
アマネがこぼすと、エヴリーヌは、ああ、とうなずく。
「確かにねえ。あんなことをするんだったら、この世が憎い!! みたいな人なんじゃないかしらって思えるけど、あの人、全然そういう感じがしなかったわね」
「だろう? あの怪物の側にいたから勘違いしたが、あやつ、全然あの怪物に関心なさそうであった。代わりに、息子息子と、そればかり」
あの冷たい憎悪に満ちた目は、怪物など見てもいなかった、とアマネは思い返す。
奴は、憎悪の対象としてアマネとエヴリーヌ。
そして、希求の対象として、息子と呼ぶ涼を求めていたのだ。
どこに、人間社会に対する復讐の要素があったか。
「しかも、わしらがどいつだかを殺したの何のと。それの仇討ちは個人的にするということのようだが、それだとあれほどの規模で無差別殺戮する怪物を生み出す意味がわからん」
「……身に覚え、おあり?」
エヴリーヌが困惑も露わな視線を向ける。
アマネは渋い顔だ。
「ある訳なかろう。あの厄介な吸血鬼たちの恨みを積極的に買おうとする人外は、日本では多くないはずだぞ」
エヴリーヌは深く嘆息するしかない。
「訳がわからないわよねえ。かといって、落ち着いてお話をって雰囲気にもならないくらい、あの彼、殺《や》る気満々なんですもの」
「そもそも、奴がお前の母君の国へ出向いて、『マリー=アンジュ』を盗んだ、というのも、しっくり来ない話でな」
アマネが核心に近付くと、エヴリーヌは面白そうに続きを促す。
「ふうん。というのは? どうしてあなたはそう思ったの?」
「奴が吸血鬼という事実、そのものだ。日本産吸血鬼は、疫神としての性質が強いのであって、結界破りの術が得意などという話は、聞いたことがない。ましてや、お前の母君のような伝説級の存在の血を引く人外の結界を破るなど」
アマネは眉をぎゅっと寄せて、厳しく言い切る。
エヴリーヌは、あら、と目を見開いた。
「……言われてみればそうね。ヨーロッパ種の吸血鬼はまた違うけれど、日本種吸血鬼は性質が大幅に違うみたいだもの。天狗のお姫様が言うなら、間違いないわ」
日本ではその数も勢力も巨大な「天狗」という種族の統治者層の者が、きっぱり「日本産吸血鬼はそうではない」と断言することの意味は重い。
彼女らは、日本の人外の知識を最も集めている層であるはず。
そもそも天狗の起源として、堕落した学僧が転生した、などという説が語られるほどに、彼らの知識欲は強い。
その知識に照らせば、この件の不自然さは明らかであろう。
「推測される犯人像と、奴は全く一致しない。盗み出したのは、別人だ」
アマネは断言する。
エヴリーヌは首を振る。
「そういえば、彼、私たちが『マリー=アンジュ』を追ってきた云々言ってたわね。あの時、彼が持ってるから、そう言ったんだとばかり思ってたけど、彼も持っていなかったのかも……?」
「だが、『マリー=アンジュ』のことは知っていた。無関係ではない」
一瞬言葉を切り、アマネは思い切ったように付け足す。
「奴は主犯でなく、共犯みたいなものかも知れん。本星が、他にいる可能性が高い」
エヴリーヌはまじまじとアマネを見詰める。
「それじゃ……」
「おい、いたぞ」
エヴリーヌの疑問は、アマネの言葉と、下に向けた強い視線にぶった切られた。
港区、海沿いの、芝浦埠頭駅にほど近い一角である。
少し前よりまた膨れ上がって、怪物が鎮座している。
十数本の触手を、周囲のビル群に突き込んで、相変らず人間を食らっているようだ。
濃いオレンジと金色に、毒々しい炎よろしく輝く触手が一際うねるのは、人間を食らう瞬間か。
「まずいな。これ以上でかくなられると手の出しようがなくなるぞ」
アマネの視線の先の怪物は、すでに体長40mに迫ろうとしている、
道路の幅の関係で、このままでは移動できなさそうであるが、恐らくそういう問題でもあるまい。
とんでもない魔力そのものの怪物なのだから、転移くらい朝飯前でないと、諸々説明がつかぬ。
「奴は今のところいないな。速攻で決着をつける。とにかく動きを止めろ」
アマネが、短く指示を出して、扇を構えて急降下する。
軽くため息と共に肚を括り、エヴリーヌも後に続く。
「滅びよ!!」
叫びと共に放たれた衝撃波は、超高温を伴い、一瞬周囲を赤く染める。
着弾と共に巻き込まれた触手数本が、一瞬で灰と化した。
ワニを誇張して造形したような頭部の一部も、灰となって崩れる。
衝撃で、周囲のビルのまだ残っていた硝子が砕けて飛び散る。
さながら核兵器の爆風。
「きゃあ、ちょっと!?」
苦痛のあまりか、それとも反射的な動きに過ぎなかったのか、ぶん回される触手に、エヴリーヌは危うく巻き込まれそうになる。
風に圧されるように後退したエヴリーヌは、意識を集中し、「晶化」の術を発動させる。
材木のように崩れ落ちてきていた毒々しい色合いの触手が、一瞬で水晶の柱となり、次いで、ばらばらと細かく破砕されて崩れ落ちていく。
奇怪な表現しようのない声で、怪物が吼える。
苦痛の声なのは明らか。
かっと開いた怪物の巨大な口から、何かが吐き出される。
いや、違う。
空中に、何かが「投射」されたのだ。
それは、形を見れば、光の網のようである。
目が細かく、人間サイズの生き物には避けようがない。
それが、アマネとエヴリーヌの頭上を覆い、見る間に取り囲む。
一瞬で、二人は大きな光の球体に閉じ込められる。
アマネが苦痛の声を上げる。
ぐいぐい締まる光の網のようなものに体が絡め取られた途端、全身から血が抜き取られるような脱力感と、得も言われぬ不快感と苦痛に襲われたのだ。
エヴリーヌに至っては言葉も発することができない。
二人は、まるで魚のように、網に絡められた状態で、大きく開けた怪物の口へと……
空間を、黒がよぎる。
あっという間もなかった。
いつの間にか網がばらばらにちぎれ飛び、アマネとエヴリーヌは解放される。
はたと仰ぎ見た瞬間、またもや黒の衝撃。
怪物の触手を乾き切ったった小枝のようにへし砕き、頭部に巨大な溝を穿つ。
それぞれの傷口は、一瞬で変色し、そこから凄い勢いで崩れ落ちていく。
「お嬢さん方。助太刀いたしますよ。伺いたいことがあるので」
どう見ても新たに獲物を漁りに来た、という風情で、空の只中、闇路が笑っていた。