動かしっぱなしの翅の付け根が痛い。
緊張と運動のしすぎで、肺腑は焼け付くようだ。
心臓が、今にも胸郭を突き破りそうに感じる。
それはマイリーヤのすぐ下、荒れ果てた街道だった道を全力疾走しているイティキラも似たような状況であろう。滅多にないことに、彼女の息が上がっていることからでも分かる。
分厚い森の枝葉にまだらに切り取られた月光が、二人の少女を照らしている。
一人は背中に、翠色の華麗な翅を持つ妖精族《ようせいぞく》の少女。
宝石のような瞳、薄手のチュニックとキュロットから伸びたほっそりした手足が、汗に濡れている。
アッシュブラウンのショートヘアの乱れぶりが、どれほど必死の遁走をしているのかを物語っていた。
彼女の足元、まるで守るように四本の肢で疾駆しているのは、獣佳族《じゅうかぞく》の少女だ。
大きな獣の首の部分から、人間の上半身が生えている形の姿をしている、野生味の強い種族。
その少女の獣の部分は、金色に黒の紋様の豹のそれだった。
通常の森豹より数倍大きい。
その首にあたる部分から突き出ている人間の少女の上半身は、鮮やかな金髪にくっきりした目鼻立ちの、太陽のような美しさだ。
だが、今やその輝きも、悲痛な色に汚れている。
「……イティキラ。もうだめだ、追いつかれる。キミだけでも逃げて!!」
不意に空中で得振り向いた妖精族の少女に呼びかけられ、イティキラと呼ばれた獣佳族の少女は目を見張る。
「……なに言ってんだ!! そんなこと。できる訳ないだろ、マイリーヤ!!」
荒い息の下、激しく叫んで、イティキラは意を決したようにくるりと振り向いた。
――彼女たちを追う者たちがいる、そのざわつく闇の向こうに。
「ここはあたいが食い止める!! マイリーヤだけでも逃げるんだ!!」
連中の狙いは、主にマイリーヤだ。
その筋で売れば高く売れる、妖精族の高貴な家系の娘。
「そんな……そんなこと!! イティキラだって一人じゃ無理だ!! もう武器だって……!!」
イティキラの手足に取り付けてある格闘用の籠手と脚甲は、すでにボロボロだ。
固定用の革は切れかけているし、肝心の打撃部も変形してしまっている。
それはマイリーヤも似たようなもの……というよりももっと酷い。
弓はあっても、肝心の矢は一本も残っていないのだ。
「なに言ってんだい。ここまで一緒だったじゃないか、こうなる前から。今更それを無視しろってのかい? 忘れろってのかい? ずいぶんだよ」
イティキラは、熱っぽい目で親友を見上げ、押し被せるように叫んだ。
「最後に大暴れ……してみせるさ!!」
叩き付けるようにイティキラが叫んだ時、折り重なった闇の向こうから、ごそりと盛り上がる影の波のように、そいつらが現れた。
種族的には、人間族と一部獣佳族が混じっている。
だが、ざっと二十人ほど、獣佳族はともかく、これだけの数の人間族がまとまってこの辺りに姿を見せるのは珍しい。
しかも。
彼らは、どう見ても「まとも」ではなかった。
いずれもぼろと粗悪な武具を身に着けた、明らかに正業には就いていないであろう出で立ちの連中ばかりだ。一言で言えば「山賊」とでも言うべき人種。
不気味な月光に、そいつらの構えた武器がぎらりと光った。
肉厚の剣、斧、弓矢など、使い込まれた武器ばかり。
あの中の幾つかと、マイリーヤとイティキラは戦ったのだが、結局逃げ出すしかなかった。
多勢に無勢だったのもあるが、武器の質が違い過ぎたからだ。
彼女らの住んでいる辺りでは、比較的おとなしい魔物しか出ないこの森。
マイリーヤもイティキラも、そう上質な武器は持っていなかったのだ。
しかし、その狩場を求めて放浪しているのであろう山賊たちは違った。
まるで戦場に出るかのような本格的な武具を装備し、雪崩のようにマイリーヤとイティキラの村を襲った。
ほうほうの体で逃げ出したものの、彼女らは追い詰められた。
他の村人は逃げ出せるよう取り計らったつもりだが、本当にはどうなったのかは分からない。
ただ、山賊の大部分がこちらを追いかけて来ているということは、他の村人を見失ったのだと期待するしかなかった。
逆に言えば。
マイリーヤとイティキラは、助けもないまま、追い詰められている訳で。
「おう、どうした。ようやく観念する気になったか?」
殊更大きな、肉厚の両手剣を携えた、いかにも傭兵上がりといった男が、目の前に現れた。
この荒れ果てた世界では、極めてよくある話――魔物に追いつめられた人類種族に属する六種族は、少ない安全で豊かな領土を奪い合う。そこで求められるのが武力だ。傭兵の類の仕事が消えることはない。
しかし、傭兵は不安定な職業でもある。
大きな街の大店の番頭のように、あるいは王宮雇いの騎士団のように、常に安定した収入がある訳ではない。畢竟、運悪く仕事にあぶれた場合は、持っている者から奪う――つまり、山賊や盗賊のようなものに成り代わるしかない。実際、マイリーヤやイティキラの知る限り、傭兵と山賊はほぼ同義の言葉として使われていた。
薄汚れ、武装した肉の津波が、じりじりと妖精族と獣佳族の美少女たちに肉迫していく。
森の魔獣の夜赤く光る瞳でも、この月光の下ででろりとガラス玉のように不気味に光る目に比べたら可愛いものであろう。
隠そうともしない凶暴な肉欲と支配欲の気配が押し寄せ――
ふっと、月光が陰った。
「あらあら、まあまあ、物騒ね。しかも、嫌な気配がするわ。これは排除の方向でよろしいかしらね?」
耳に甘美な豊かな女の声音が、場違いにこの緊迫した場を撫でた。
はっと、誰もが振り仰いだ。
そこにいたのは、星空の女神もかくやと思われる、一人の女だった。
まるで異境の踊り子のように、ひらひらして露出度の高い、変わった衣装を身に着けていた。
魅惑的な肢体のそこここに輝く装飾品が光っている。
その中でもひときわ目を引くのが、その額にある額飾りの星層石《せいそうせき》だった。まるで、見上げる夜空を切り取って閉じ込めたかのようなその貴重な宝石は、彼女のクラクラするような妖艶な面差しを更に神秘的なものにしている。
ゆるやかに巻く長い黒髪は、星層石に合わせてか、やはり宇宙《そら》を宿したようなきらめきを宿している。
そんな若い女が、何の支えもなしに空中に浮いている。
その手に携えられた、華麗な二振りの湾刀が、妖美な光をたたえて掲げられた。
「天空なす星々よ」
女の声が朗々と響いた。
古風なその口調が何らかの魔法の詠唱だと、気付いた時には遅かった。
「我が敵に災いの星を!!!」
瞬間、凄まじい轟音が、マイリーヤとイティキラの耳を聾した。
同時に巻き上がる輝きが、網膜を灼く。
巻き込まれる――と思った二人だったが、何故か目の前に見えない壁でもあるかのように、地を震わす衝撃は伝わっても、その爆発の余波は彼女らになんの街も及ぼさなかった。
ぎゅっと目をつぶって体を固まらせ――恐る恐る目を開けて見えた光景に、マイリーヤもイティキラも唖然とした。
目の前には、巨大な窪地……クレーター、というべきものができていた。
そこにいたはずの山賊団の連中は、跡形もない。
クレーターの円周は本来ならマイリーヤとイティキラのところにまで繋がっていそうな形なのであるが、何故か彼女らの周辺にだけ決して壊れぬ壁ができていたかのような塩梅で、きれいに地面が残っていた。
破壊と平穏の狭間で、マイリーヤとイティキラは呆然とするしかできない。
「ふう。やっぱり地上の人たちは、私のような者の魔法に対して呆気ないこと。噂には聞いていたけど」
ふわん、といい香りを漂わせて、その宇宙を思わせる女が降りて来た。
「……あっ、あんた……い、一体……!!」
唖然としすぎて口のきけないマイリーヤに代わって、イティキラが詰問する。
度胸が並の十人前くらいはある彼女でも、流石に声が上ずっている。
マイリーヤとしては、しびれる頭のどこかで、ぼんやり「お礼を言わなくちゃ」と考えているが、声にも態度にも出せなかった。
「あたくしは、レルシェント」
その女は、妖艶に微笑みながら答えた。
「旅の踊り子で……そうね、魔法使い、と名乗らなくてはならないかしら?」