「大丈夫。私は、逃げも拒みもしませんから、ゆっくり飲んでいいんですよ」
背中を撫でられ、セシリアはうなずくこともできずに、ひたすらに横たわったヴォイドの首筋に顔を埋め、牙を立てた。
彼女の血は、あまりに甘美だ。
自分でも、飲み過ぎている自覚があるのだが、どうにも止めることができなかった。
吸血鬼になったばかりの頃は、どうしても吸い過ぎるものだ――と、誰かに聞いたような気がする。
ヴォイド自身だったか、それとも他の誰かだったのか、血の陶酔の中にいるセシリアはそれも思い出せない。
広い、ゆったりした居間は、天井から下がったデザイン的な照明で柔らかく照らされている。
窓にはいかにも上品で女性らしい、図案化した花を織り出したカーテンが引かれ、外の夜闇を締め出している。
ヴォイドは緑色の布張りの、ゆったりしたソファに仰向けに横たわり、吸血するセシリアを受け入れていた。
ヴォイドの豊かな黒髪が、ゆうゆうと渦巻きながら、ソファを覆い、その下に垂れていた。
セシリアは、彼女のすらりとした長身の上に、自らの身を重ね、押し付けていた。
牙も露わに、その白い陶器のような首筋に噛みついて、無造作に血を吸う。
傍目には多分、セシリアがヴォイドを襲っているように見えるのだろう。
ようやく、セシリアの渇きが、潮が引くように収まり始めた。
名残のように少し吸って、セシリアは一息つき、のろのろと牙を引き抜いた。
そのまま、なんだか顔を合わせるのが恥ずかしくて、ヴォイドの首筋に顔を埋めたままでいる。
「……満足しましたか? もういいんですか?」
優しく、ヴォイドが背中をさすってくれる。
随分吸い過ぎたと思ったのに、その声には落ち着きと張りがあり、弱った様子が微塵も感じられない。
「うん。ありがとう……あの。吸い過ぎてごめんなさい」
おずおずと言い出すと、ヴォイドは軽い笑い声を立てた。
「いいんですよ。あなたは今そういう時期だってわかってますし、私は並の人間ではなく、仙人ですから。流石に二千年も修行を積んだ身ならば、ちょっと血を吸われたくらいは何でもありませんよ」
二千年の修行。
この言葉を聞くたび、セシリアの心は泡立つ。
ヴォイドが重ねてきた年月。
セシリアではわずかな断片から想像するくらいしかない出来事を、遠い異国の地で積み重ねてきたヴォイド。
わずか十数年の人生でさえ右往左往するセシリアに比べ、彼女はどれだけのものを見て、経験し、そして記憶の海に沈めてきたのだろう。
記憶を、時を、沈めれば沈めるだけ深くなる、ヴォイドという海。
それにくらべ自分はどうだ。
せいぜい、幼児が長靴の先でつつく、水たまり程度だ。
「もう冷めてしまったかもしれませんが、お茶で口の中の血を洗い流した方がいいですね。すみませんね、仕事とはいえ、丸一日家を空けてしまったので、乾いてしまったんですね」
ヴォイドは体重を感じさせない滑らかな動きで、セシリアを勇気づけ起き上がると、彼女と並んで座った。
二人の目の前のテーブルには、わずかなぬくもりをたたえたジャスミンティーのカップが二つ、並んでいる。
金と碧で蓮を描いた印象的なカップ。
ヴォイドがせっかく淹れてくれたのに、セシリアは渇きに熱狂して、ヴォイドを押し倒してしまった。
あの時は夢中になっていたが、かなり失礼ではないだろうか。
いくらヴォイドが自分の後見人で同居人だとはいえ、そして彼女が説明してくれた通り、神魔には神魔特有の事情というものがあって、人間といつも同じようにはいかないとはいえ、物事には最低限のやり方というか順序というかがある。
「どうしました? 気が乱れていますね。何か心配事でもありますか?」
ヴォイドが物静かな表情で尋ねてくる。
彼女は綺麗だ。
黒い蓮のように、深くかぐわしく、つややかで高貴だ。
胸がじんわり熱くなって、セシリアはヴォイドを見ていられずうつむいた。
「私」
「どうしました?」
「私、どうしたらヴォイドみたいに、落ち着いた大人になれるんだろう?」
どうしたら、こんな落ち着きない私がヴォイドと吊り合った大人の女になれるんだろう。
セシリアは、本当の疑問を呑み込んだ。
「あなたは、実際まだ未成年なんだから、明日の朝起きたら大人になっているっていう訳にはいきませんよ。私や、私の同僚たちが落ち着いて見えるのは、彼らが数百年や数千年の時を超えてきたからで」
あなたは、ただ一日一日を、満足するために生きていけばいいんですよ、とヴォイドは静かな声で教えた。
「誰だって最初は同じです。子供や幼体なんです。ましてあなたは、何の前準備も与えられず、いきなり神魔の世界に突きこまれた。すぐに順応できなくて当たり前です。生きているだけで大したものなんですよ、実際の話」
ぽんぽんと背中を叩かれ、セシリアははたとヴォイドを見返した。
「生きているだけでいいの? でもそれじゃ」
「あなたはまず、生きることです。ご自分の人生を見つけなさい。誰かに大したものだって仰がれるのはそのあと。他人の評判なんかどうでもいい。まずはご自分の生に向き合うんです」
私だって、師匠に入門したばかりの頃は、失敗ばかりのしょうもない、出来の悪い小娘でしたよ。
でも、二千年、仙人として生きて、今のようになったんです。
あなたにできないことはない。
静かに、だが事実をありのまま述べる確固とした響きで、ヴォイドは断言した。
セシリアは、そっと手を伸ばして彼女に触れる。
私とヴォイドを隔てる時の河は二千年分。
でも、こうして手を伸ばせば、彼女の岸に届かせることができる。
「ねえ、ヴォイド。大好きよ」
ぎゅうとしがみついて、セシリアは言葉を迸らせた。
「私が、大物だって言われるようになるくらいまで……側にいてくれる?」
「ええ。あなたが必要とするなら、私はいつまでだって」
滑らかなヴォイドの手が、セシリアの柔らかな金髪を撫でた。