彼女の願い

「ねえ、ダイモン」

 

 D9が、珍しく疲れた様子で近づいてきた。

 

 夜の街の一角、周囲はパトカーのまき散らす赤と青の光の洪水で満ちている。

 怪我人たちが、救急車に積み込まれていく。

 警官たちが、恐らく後から彼らとしても納得いかない結末になるだろう現場検証に忙殺されているのを、俺たち特務部隊Oracleの面々は、少し離れたところから見ていた。

 

「抱きしめて、くれる?」

 

 D9が自分からそう頼み込んですがってきた。

 少し前まで、小山のような巨体の九頭龍だったのに、今はなんだかいつもより小さな女の子に見える。

 本来、日系の女性としては、決して小柄な方ではないのだが。

 落胆が、彼女の存在感を削っているのだ。

 

「大丈夫だ、D9」

 

 俺は、彼女のチームメイトとして、何より彼女の恋人として、D9を大きく広げた手で抱きしめた。

 俺が贈った香水の香りが、彼女の肌の匂いと混じって香り立つ。

 柔らかく流れる虹色の髪が俺の肩に落ち、小さな頭からかすかに鼻をすする音。

 豊満で弾力ある肉体の感触、慣れ親しんできた体温。

 

「君が気にすることはない。犠牲者は出たが、それでも最小にとどめることができた。さっきの男の子も生き延びるとも」

 

 俺の胸にしがみついているD9が、かすかに震えるのが伝わってきた。

 

 気を利かせて少し離れた場所にいるメフィストフェレスとムーンベルが、ちらりと視線を投げかけて、頼むぞというようにうなずいた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 そもそも、ことの起こりは、街の小さな教会での出来事だった。

 

 そこでは、数年前に起こった銃乱射事件の追悼礼拝が行われていた。

 全米規模のニュースにもなったそれは、キリスト教原理主義者の男が、進歩的な考えを持った当時の若い牧師と、彼に賛同する信者たちを自動小銃を持って襲ったという事件だった。

 礼拝の最中に踏み込まれ、無防備な信者たちは雨あられと銃弾を浴びせられた。

 牧師は信者たちを庇う間もなく殺され、聖なる教会を血の海にした男はその後、自宅で自殺しているのが見つかった。

 

 生き残りの信者たちや賛同者、近隣住人の手によって、その事件を追悼する集会が毎年のように開かれるようになり。

 その様子もまたニュースとして全国規模で流されることがたびたびあった。

 

 そのことを好ましく思っていなかったのが、同じくキリスト教原理主義者。

 というか、その背後にいる過激派の「天使」たちと、彼らにより「神魔化」された魔人たちだった。

 

 恐ろしいことに、過激派の天使たちは、自らの血を配下の過激派の人間に与えることにより、人間を神魔化、「魔人」と呼ばれるような存在を作り出していた。

 人間としての顔と性質も持ちながら神魔と化した「魔人」たちは、並みの神魔より、ある意味始末に負えない。

 

 更に言えばこの場合、奴らは自分たちの蛮行を天使から与えられた聖なる使命だと信じ込んでいるので――まあ、奴ら的解釈では間違いではないのだろうが――、考えを翻させるのがほぼ不可能だということだ。

 奴ら、過激派の天使の一部は、天使としての禁忌を破ることにより、不死身の魔人軍団を手に入れたのである。

 

 そして、今年。

 

 奴らは、キリスト教原理主義の魔人の群れを、追悼集会に突っ込ませるというおぞましい行為に手を染めた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「さあ、クズども覚悟しろ!! 死ぬ時間だ!!」

 

 夜の闇が落ち、教会の前庭に設えられた祭壇にキャンドルが捧げられる段になるや否やの出来事だった。

 

 信者たちや、信者ではないが痛ましい事件に同情する近隣住人たち、更には遠くからも駆け付けたかつての牧師の賛同者たちが、手に手に小さなキャンドルを持って教会の前庭に暖かい光の環を描き出した、そんな時。

 

 彼らの頭上に、翼のある影が浮かび上がった。

 

「天使様!?」

 

 それを都会の薄い夜闇の間に目撃した老婦人が、そう叫んだのも道理だった。

 

「それ」は、確かに、ぱっと見は天使に似ていた。

 背中に大きな白い翼がある他は、全体的に人型。

 まあ、中身は「人間らしい」とは程遠くなっているのだが。

 

 天使に見えるそいつらは、都合四人いた。

 一見、背中に翼がある以外は、アメリカのどこにでもいる若い白人の野郎っ子にしか見えないのが、この場合、異様と言えば異様と言えよう。

 

「ひゃほーーーーい!!」

 

 赤毛の、やや小柄な小僧が、右手を差し上げた。

 その途端。

 

 轟音と共に、まるで火山弾のように燃える石が、群衆に向けて降り注いだ。

 

 悲鳴と嫌な匂い。

 

 血の惨劇は、だが、魔人どもが思うような効果を上げなかった。

 途中で強風に吹き飛ばされたからだ。

 

「よう、ボクちゃんたち。おいたはそこまでだぜ」

 

 目の前に浮かぶ、この俺の、奴らから見れば狂暴な巨躯を、連中は呆然として眺めていた。

 

「……パズズ……!? そんな、なぜここに」

 

「こういう時に、お前らに対する警戒をしないとでも思っているのか? 米軍特務部隊を舐めるなよ?」

 

 そいつらは。

 何か、叫ぼうとしたのだろう。

 

 だが、中途半端に開かれた口から叫び声は出てこなかった。

 俺の背後からせり上がってきた、その巨大な龍の眼光に釘付けにされたから。

 

 まるで俺を守るように九つの首を伸ばしたD9の真ん中の首が、稲妻のように奔(はし)った。

 がっちり毒牙を打ち込まれた魔人が、一瞬痙攣しただけで動かなくなる。

 

 他の三人は動こうにも動けない。

 世界の始まりをもたらした蛇の、目の魔力に捉えられているからだ。

 

「やあ、九頭龍としての力が強くなったじゃないか、D9。あんまり私の出番はないな」

 

 気楽な口調で、悪魔の正体を現したメフィストフェレスが宙に浮いていた。

 まさに有名な悪魔を目の前にしても、教信者の魔人どもは動くこともできない。

 

「あ、私、怪我人を見てくるわ。こっちは任せたわよ~」

 

 ムーンベルに至っては、さっさと行動を地上の怪我人のケアに切り替えた。

 おとぎ話の妖精そのままに、きらきらしながら地上に舞い降りる。

 

 ふと、俺はD9の一番左の首の目が、地上を向いているのに気付いた。

 さっきの火山弾で打ち倒されたらしい、小さな――七歳くらいの――栗色の髪の男の子を見詰めている。

 

「ムーンベル、あそこに子供が……」

 

「え? OK、任せて」

 

 ムーンベルが、その子と、気絶しているのであろうその子の両親に向かってコースを変えた。

 

「さて、お前らに勝ち目はないぜ!!」

 

 俺は暴風を起こし。

 気の触れた魔人どもを、文字通りの意味で粉砕した。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「君は最善を尽くしたさ。ムーンベルが言ったろ、死人は一人も出なかった。さっきの子供も少し休めば問題ないはずだ」

 

 D9は、しっかり俺にしがみつきながら、どうにかうなずいた。

 

「うん……理論的には、わかってるんだよ」

 

 自分が出ながら、人間の、しかも子供の被害を防げなかったというのは、D9にとっては痛恨のミスに思えることであろう。

 

 しかし、あの状況ではギリギリまで、俺たちが張り込みをしているのを気取らせるわけにはいかなかった。

 何人かの怪我人が出たくらいの被害は、冷酷なようだが、実際には致し方ない。

 人間の死者は一人も出なかったのだ。

 あのレベルの魔人が四人出張ってきたところでその程度なのは、実のところ称賛に値する成功である。

 

「子供が傷ついてびっくりしてしまったんだな……。大丈夫。君はよくやった。何もかも元通りになる。あの子供だって、すぐに元気になるさ」

 

 俺は、まだまだこの世界に関してうぶな恋人を抱きしめ、背中を叩いて元気づけた。

 

「君が更に強力な神魔になっていけば、被害を更に軽減するのも夢ではない。これは、そのためのステップだ。誰も、最初から万能ではない。君は賢い娘だ、D9。俺に言われるまでもなく、わかってるだろう?」

 

 ぎゅうっと抱きしめると、D9は、小さく、ありがとう、とつぶやき、もう一度強く抱き返してきた。