漆の参 溜池の決戦

「よーし、あたしが行く! みんなは待ってて!」

 

 千春が懐からクナイを取り出し、構えた。

 

「……良かろう。任せた、千春。他の者はいつでも出られるようにして待て」

 

 黒耀の言葉に、ようやく我に返った陣佐が地面から燃える剣を引き抜き、青海が幻の魚と水を描いた扇をふわりとはためかせる。

 

「行っくぞー! バケモノ、あたしが相手だあ!」

 

 クナイを構えた少女が、風のように走り出した。

 一直線に、池の中のモノに向かって。

 

「来い! 来い! こっちに来い、バケモノ!」

 

 尾を引く言葉は言霊と化してモノを縛った。

 モノが巨体を動かし、千春が駆け寄る岸辺へと移動する。

 盛り上がった波が水辺の花を洗った。

 

 どん!

 とモノの口から放たれた、鉄のように固められた毒水の塊が千春に降り注いだ。

 

 千春が横っ飛びに避ける。

 聖なる伊耶那美の花ごと地面がえぐられる。

 飛び散った花びらはしかし、すぐに伸びてきた次の花にとって変わられる。

 恐らく本来なら花など耐えられないくらいの強烈な毒水も、伊耶那美の花の前で浄化された。

 

 次々に、モノは毒水の弾を放つ。

 まるで大砲だ。

 しかしただの一発も千春をかすめない。

 自在な風のように花の斜面を駆け巡る千春は、飛び散る花の間を縫って波が岸を洗うほどの近くにまで辿り着いた。

 

「来い! あたしはここだあ!!」

 

 千春が挑発に乗せて言霊を放つ間もなく、モノは岸辺に押し寄せた。

 細かいが鋭い牙のぞろりと生えた口を開く。

 そのまま千春になだれかかり、食いちぎろうと――

 

「動くなーーー!!!」

 

 千春の言霊が響き渡った。

 

 中途半端な角度に首を伸ばしたまま、モノはがくん! と固まった。

 ちょうど岸辺に向けて首を差し出したような形になる。

 千春は振り向き、仲間たちに向けて合図を送った。

 

「みんな! 固まったよ、今だ!」

 

「……行くぞ。手早く片付ける」

 

 黒耀が花渡と御霊士たちを促し、駆け出した。

 呼ばれた者たちが後に続く。

 

 真言らしき言葉と共に、真っ黒い……いや、どうにか闇の塊と表現できる「何か」が、黒耀の印を結んだ手の前に現れた。

 斜面を駆け下りながら、黒耀がそれをモノに向けて解き放つ。

 

 飛来したその「闇」が、モノの伸ばした首半ばにめりこんだ。

 何とも表現しようのない音がし、モノの首が半ば「消失」した。

 刃物でえぐったのとも朽ちたのとも違う、何やら奇妙な力で、その部分がどこへともなく消え失せたのだ。

 

 モノは悲鳴をあげようとしたのだろう。

 だが、言霊で縛られているせいで喉も固まり、軋むような吐息を洩らすのが精一杯だった。

 

「今なら通じるな!」

 

 陣佐が剣を振り回した。

 まとわりついていた炎がぶわりと膨れ上がり、次の瞬間、人間ほどもある炎の弾と化してモノに突撃した。

 一気にモノの首から上が炎に包まれる。

 更なる悲鳴はごうごうと燃える炎の音に掻き消された。

 

「なら、あたしはこれだ!」

 

 青海は優雅に駆け下りながら、やはり青い扇でモノを扇いだ。

 一瞬で、溜池が凍る。

 モノの水に浸かっている部分は一緒に凍りついた。

 

 首から上が火責め、下が氷責めにされて、モノが震える。

 どうしようもない苦痛であろうが、逃げる術は奪われていた。

 

「皆、よけていろ!」

 

 最後に叫んだのは花渡だった。

 ごうごうと特大の松明よろしく燃える首の下に滑り込む。

 熱気が上から炙り、足下からは冷気が這い上がった。

 

 頭上に差し出されたモノの極太の首に向かい、花渡は神刀を振り下ろした。

 

 燃える首がずるりと滑り、胴体から離れて落下した。

 重い音が地面を振るわせる。

 切断面から噴き出した血も、体から離れた首も、斬られた瞬間に炎に呑まれあれよという間に灰になる。

 

 翻って、溜池に残った胴の形に氷がえぐれていた。

 命の火が消えるや、モノの体は塵と化したのだ。

 

 あれほど手強かったモノは、あっさり消滅していた。