何回か来ているはずなのに、何だか知らない場所みたいに思える。
百合子は、自転車を押しながら、そんな風に考える。
カーキのマウンテンパーカーの下は白のニット、黒白の小花模様の巻きスカートの下はデニムといういで立ち。
非正規雇用の司書の仕事は、薄給だが、休みは多い。
百合子はあの異様な出会いの翌日、休日になっていたのだ。
そこは、N町。
刻窟市の中でも、古い住宅街。
立地が悪かったのか、それとも住人の高齢化が特に進んでしまったのか。
あるいは、かつて起こったという殺人事件を機に、何故か治安が悪くなってしまったというのか。
いずれの原因か、複数の要因か、どのみち、この辺りはさびれている。
植物に埋もれた廃屋、まだ人が住んでいるのか定かではない団地、無人で荒れ放題の神社。
そんな寂しい風景がゆうゆうと連なる場所、それがN町の大半である。
天気は良く、日差しは明るい午前中。
それでも百合子の目には、そのあたりは何か空気が煤けて薄暗いように思える。
そればかりか、何か見えない圧があり、息苦しいようにも感じられる。
周り中が、伸び放題の植物の枝が張り出している一角だからというだけではあるまい。
……幽霊に取り憑かれるのって、こんな感じだろうか?
百合子はひしひし押し寄せる不気味な気配に対抗するように、そんなことを内心呟く。
そうだ。
あの貸出カードに付随していた個人情報、あの殺人鬼そっくりの少年の住所は、確かこのあたり。
電柱に張り付けられたプレートの番地表記を見やりながら、百合子は生唾を飲み込む。
この区画だ。
何かビルの二階になっていたはず……
一体築何年になるのかの、昭和の匂いのする古めかしい雑居ビルが見えてきて、百合子は思わず足が止まりそうになる。
「二階……」
百合子は、自転車のハンドルを保持したまま。
ぐぎぎと音がしそうなぎこちない仕草で、その人が住んでいるとは信じがたいほど古びた雑居ビルの二階を見上げる。
砂埃でまだらになったサッシ窓にはカーテンがかかっているようであったが、人影は見えない。
『何やってるんだろう、あたし』
百合子は急に気抜けしてがっくりうつむく。
あの殺人鬼そっくりの少年の住所を確認してどうしようというのか。
そこに住んでいたら、あるいは住んでいなかったら、どうだというのか。
あの少年は、どう考えても百合子の弟を殺害した殺人鬼ではない。
あの事件は、ちょうど二十年前のこと。
鵜殿少年はどう見ても高校生くらい、あの時点では存在してもいない。
しかし。
何かが気になっているのも事実。
百合子は再び顔を上げる。
目鼻が似ているなんてよくあることかも知れないが、しかし特徴的な傷まで同じ位置同じ角度とは、どういうことなのだ。
いきなり。
ぽん、と肩を叩かれる。
百合子は飛び上がらんばかりに驚き、ひゃいっという奇妙な声と共に振り向く。
そこに。
いた。
あの少年、鵜殿文章。
「ねえ、お姉さん。あの図書館の司書の人だよね? こんなところで何してんの?」
一見友好的だが、底に鋼の板のようにひんやりした何かを潜ませた声で、鵜殿少年が口にする。
端正な顔立ちは、うすら寒いような酷薄な笑いが貼り付いている。
浮かび上がる、あの左目尻の傷。
「お姉さんさあ。俺のこと見て、昨日変な顔してたよね。何か思い出したみたいな?」
くつくつ笑いを含んだ声で、鵜殿が口にする。
百合子の答えを待つつもりもないようだ。
「そういえばさあ。俺も思い出した。俺が『始まった』のは、二十年前、この街でなんだよねえ」
百合子は唖然としているところに更に虚を突かれ混乱するばかりだ。
どういうことだろう?
「俺が始まった」?
二十年前。
この子は、どう見ても子供なのに、その時点で存在していたというのか。
すると、この姿のままずっと生きている?
馬鹿な。
そんな無茶苦茶な話があるものか。
「最初の本格的な獲物だったかな。三つくらいの男の子。お姉ちゃんらしき女の子と一緒にいて、その子は仕留め損ねたんだよねえ。ああ」
鵜殿は百合子の顔を覗き込み、ニンマリする。
「君かあ。可愛い子供だったけど、大きくなって美人になったじゃない」
百合子は混乱の極みだ。
どういうことだ。
やっぱりこいつはあの時の殺人鬼。
何故か年を取っていない?
実年齢よりだいぶ若く見える人間はいるだろうが、流石に無理がある。
どういうからくりなのだ。
「じゃあさ。あの時の続き、しない? もしかして、そのつもりで来てくれたんじゃないの?」
いきなりそんなことを言われて、百合子はますますきょとんとする。
続きとは何のことだ。
「意味がわからない? これだよ」
鵜殿が、右手を持ち上げる。
その手の中に。
しらじらと光る、長大な白刃。
日本刀が、いつの間にか握られていたのだ。
「えっ……ひぇっ……ひぁぁあああぁっ!?」
百合子の混乱は、一気に生存本能へと収束する。
すなわち彼女は、自転車を放り出して、地面を蹴って逃げ出したのだ。
「二分経ったら追いかけるね、お姉さん。無事に逃げ切れるかなー?」
背後で鵜殿がそんなことを一方的に宣言しているのも、百合子の耳には入っていない。
◇ ◆ ◇
「何なの何なの何なの……!!」
百合子は、黙っているとおかしくなりそうな自分を奮い立たせるために、ぶつぶつ呟いている。
走ってだいぶ来てから気付いてしまう。
しまった。
人気(ひとけ)のない方に来てしまった。
ここは、N町の外れ。
小高い丘の斜面に神社があり、周囲は鬱蒼とした森だ。
その境内は海辺にまで続いており、普段このあたりに人気(ひとけ)は全くない。
「警察……とにかく、警察呼ばないと……!!」
百合子はショルダーバッグからスマホを取り出した、のだが。
「ダメだよ、お姉さん。そんなの、面白くないじゃない?」
意外と近くで、聞き覚えのある声が聞こえ、百合子は弾かれたように振り向く。
背後、わずか3mほど離れた路地から。
鵜殿がゆっくり出てくるところ。
白刃が輝き……
「やぁぁああああぁぁぁぁああああぁっ!!!」
百合子の悲鳴に、大音声が重なったのはその時。
もの凄い風が吹いたように思える。
轟雷のような響き。
瞬間、鵜殿の姿が見えなくなる。
「下郎めが。また性懲りもなくしでかす気か」
「でも残念、今度は最初から私らがいるんだなぁ」
二人分の女の声は、頭上から聞こえたのだ。
百合子は思わず背後を振り仰ぐ。
青空と緑の重なりを背景にして。
そこにいたのは、人ならざるもの。
真紅の翼と、鳳凰のような飾り羽をたなびかせる壮麗な有翼人外の美しい女と。
そして、もう一人。
雲を纏い、まるで高貴な石材を削り出したような質感の皮膚や髪を持つ、玄妙で不可思議な人外の女が、宙に浮かんでいたのだ。