その1 あやし皇子とその少女

「久慈《くじ》……?」

 血の気を失ったその頬に手を触れる。

 神楽森紫王《かぐらもりしおう》の足元に倒れ伏す少女の頭からは血が流れ、沢の岸辺に血だまりを作っていた。山中の水辺に特有の涼やかな香りを、血臭が圧している。木々の枝の隙間を通って漏れる日差しが、すでにぴくりとも動かないその少女の体に投げかけられていた。グレーのブレザーがまだらに染まる。少し離れた場所に、ひびの入った眼鏡が放り出されていた。

 

「紫王……まだ、生きてる、けど……」

 乾仁《いぬいじん》は声を低め、紫王にそう知らせた。彼の凄まじく鋭い五感で捉えられたのなら、それは確かにそうなのだろう。だが、それも長くないとは、いちいち説明されるでもなく、紫王には分かっていた。

 

「……クラスメイトだったか。可哀想だが……」

 渋い顔でそう告げたのは、筋骨隆々の巨漢だ。蓮沼清美《はすぬまきよみ》という不似合いな名前の男、だが経験はこの三人の中で最も積んでいる。

 

「……まだ、終わった訳じゃねえ」

 紫王は誰にとも知れない怒りを込めて唸る。金色の目が底光った。

 その怒りは、「彼女」をこんな目に遭わせた加害者に対してか、それとも彼女をそいつらの犠牲に選んだ運命というやつに対してなのか。

「……お袋に頼る。お袋なら、こいつを助けられるはずだ」

 息を呑んだのは、仁も清美も同じだった。

「天椿姫《あまつばきひめ》様に!? 『妖魔転生法《ようまてんせいほう》』か!? 待て、軽々しく使えるものじゃ」

「こいつが死にかかってんだよ!! それのどこが軽々しいってんだ!!!」

 轟雷のような声で怒声を浴びせられ、清美は思わず口をつぐんだ。

「……ヤバイけどさ。でも」

 仁が意を決したように口を開く。

「……この後どんな面倒なことになっても、久慈が死ぬことの方がイヤ、なんだろ? 紫王は」

 ニッと笑う。一見酷薄そうな銀色の目と、夜に沈んだような黒髪、そして鋭い容貌からは、暖かで包み込むような理解の気配が放射される。

「……ああ。折角、俺とお前で助けたんだ。もう一回、助けちゃいけねえってこたねえだろ」

 

 紫王は枝葉に覆われた空を仰いだ。午後遅い日を受ける金色の眼差しが、熱砂の国の太陽のように輝いた。ぞくりとするような高雅な色気、にわかの風に、菫泥石《きんでいせき》を研ぎ出したような長めの髪が反旗のようにたなびいた。どこかエキゾチックな美貌には不似合いに思われるグレーの制服姿で、彼は倒れ伏す少女の側にしゃがみこんだ。

「お袋……」

 すぐ側に立つ仁や清美にも聞こえないくらいの囁き声で、紫王はそう呼びかけた。

 空気が、明らかに変わった。

 沢の水面を撫でるように、ひゅん、と一瞬風が吹き過ぎたと思ったら。

 

「……紫王。何があったのじゃぞえ?」

 まるで中世の武家の姫君のような、えらく時代掛かった出で立ちの美女、そしてもう一つの影が、彼らのすぐ側に立っていた。さっきまで、そこには誰もいなかったというのに。

 美女の方の体の周囲には、淡く発光するような球体が幾つも浮かび、地上に降りた星のように妖しい輝きを放っていた。美女の肉体自体も燐光を帯び、その光は周囲に浮遊する星と繋がっている。

 金縛りにするような壮絶なまでの美貌と相まって、その姿は人間とは思えない。その妖美、その魅惑は、まさに伝説に語られる美しい妖怪だ。

 

「お袋。助けてくれ」

 紫王は立ち上がり、その妖しの美女へと詰め寄った。母と呼ぶ、その人外の者へ。

「俺の……知ってる奴が死にそうだ。今なら、妖怪の体を与えてやる例の術で助けられるだろ? 頼む、あれ、使ってやってくれ」

 何があったのか察したのか、その妖怪美女は険しい面持で、倒れ伏す娘を見た。

 息子と同じ学校の制服。

 一見スカートも短くせずきっちり着こんでいる様子で地味だが、制服の上からでも窺える豊かな肢体と、緩やかに広がる艶やかな巻き毛は、着飾ったらどれだけ豪奢な美少女かということを容易に思い起こさせた。青ざめているが甘美な美貌は、痛ましいような色を添えられて胸に迫る。

 

「その娘とお前とは、どういう関係だ? 同じ学校ではあるようだが?」

 そう響きの豊かな滑らかな声をかけたのは、妖怪美女の隣にたたずむ男だった。

 ただの、男ではない。

 広くたくましい胸板の両脇には、彫刻のような筋肉で盛り上がった肩が片側に三つずつ、合計六つ、そして神像のような猛々しさと美とを同時に備えた六臂《ろっぴ》が備わっていたのだ。その姿、まさに阿修羅。

 遠い国の戦士のような華やかだが動きやすい軽装、素肌に直接まとった数々の宝飾品。

 傲岸ささえ匂やかな色香に変える高貴にして精悍な顔の上、秀でた額には、紫色の金剛石の大石が輝いている。長く垂らし整えた髪は、紫王より青みが強い杉石のような紫色、そして目の色は紫王と全く同じ金色だった。

 一目で分かる。彼は、紫王と血縁がある。

 

「てめえは黙ってろ。俺は、お袋に頼んでんだよ」

 紫王は憎々し気に唸る。紫色の阿修羅の眉が顰められた。

「しかしな、紫王。その娘が何者かも分からぬのでは、わらわも『妖魔転生法』など使いようもないぞえ? それを使うのがどういうことか分かっておるのかや? その娘は一体、何者じゃ?」

 怪訝そうに問いかける母親に、紫王は一瞬だが口をつぐみ。

「どういう関係かすら説明できぬような者を、妖怪仲間に引き入れようと言うのか。弱った病気の子犬を拾って助けろと泣き喚く幼児と変わらぬな」

 辛辣な言葉をぶつけられた紫王は、ぎっと父親である紫の修羅を睨み。

「こいつは……」

 そうして、語り出した。

 

 

 神楽森紫王と、その娘、久慈瑠璃《くじるり》が出会ったのは、全くの偶然からだった。

 その日は、よく晴れていた。

 五月らしいさわやかな風が吹き、連休明けの気だるさも吹き払うようだった。

 かつては、紫王のよく知っている妖怪が住処にしていたという、市内を流れる大きな川から、心地よい風が吹き込んできて、紫王の紫色の髪をたなびかせた。

 身なりをみるなら、いいとこのぼんが少しばかり道を踏み外した不良少年、というのが、紫王に対する大方の見方だろう。

 市内の、有名な私立校の高等部の制服であるスレートグレーのブレザーの上下に、インナーは学校の指定のワイシャツではなく、ブランドもののカットソー、その首回りや手首、耳や指に至るまで、小粋なシルバーアクセサリーをジャラジャラ着けている。

 古の無頼漢ような長めの髪は菫泥石の紫に染め、目には金色のコンタクト――だが、実はこれが、紫王の元の姿が持つ色合いだということを知る者はごく少ない。

 どこかエキゾチックな色白の容貌は、その年頃の子供に似つかわしくない傲岸不遜さと共に、妙な色気をたたえている。同時に不良少年特有の棘のようなものも、彼は周囲に放射していた。

 

「なあ、紫王」

 白々と日差しを反射する大きな橋に差し掛かった時に、そう言いだしたのは、紫王と並んで歩いていた、黒髪の少年だった。

 乾仁、不良仲間、かつ相棒の紫王からは「仁」とだけ呼ばれるその少年は、引き締まった肉体を、制服とボンテージ風のインナーで包み、シャープな目鼻立ちの中の通った鼻筋をひくつかせた。大きめな口から、長い舌がでろりとはみ出る。まるで本物の狼のように、目には銀色のコンタクトを入れている――が、これも実は彼の元からの色だ。

「なあ、なんか臭いぜ」

 仁が口にすると、紫王は立ち止まった。

「どこからだ?」

「この橋の下」

 その言葉を聞くなり、紫王は橋の欄干をするりと飛び越えて、4mばかり下の護岸工事された河原へと飛び降りた。仁も迷わず続く。

 

 橋の真下に紫王と仁が姿を見せた時、ちょうど、少女の手が舞った。

 普通の生活をしている人間からは死角になるであろうその場所で、複数のヤンキー少年に押さえつけられていた少女の手が、傍らの学生カバンを掴んだ。

 そのまま、横殴り。

 どごっ!! と鈍い音を立てて、カバンは少女にのしかかっていたヤンキー少年にクリーンヒット、彼は思わずぐらついた。

「てめえ!!!」

 裏返った怒声と共に、ヤンキー小僧の拳が少女を襲った。悲鳴が上がる。

 

 続けて殴ろうとしたヤンキー少年の野卑な顔に、鋭すぎる蹴りがまともに入った。体が宙を舞い、少女の上から転がり落ちた。

「ウチのガッコの奴に何してんだドブネズミども」

 少女の頭の脇に、守るような形で立つ紫の髪の少年を、助けられた少女も、彼女を襲っていた他校のヤンキーも、呆然として見上げた。

「てめぇ、時司《ときつかさ》高の神楽森!!」

 四人ほどいたヤンキーの一人が叫んだ。明らかに畏怖が混じっている。四人と言っても、蹴られた一人はすでに伸びているが。

「ほいよっ!!」

 語尾に音符マークでも付けそうな陽気な調子で、その後ろのヤンキーに膝蹴りを入れたのは、仁だった。そいつもまた、すっとんで転がり、動かなくなった。

「らぁっ!!」

 慌てて殴りかかった三人目のヤンキーの手を、まるで軌道が分かっていたように取ると、紫王は一気に背負い投げ。固い地面に叩き付けられたヤンキーの腹に一撃入れて、完全に気絶させる。

 その頃には陣が最後のヤンキーに連打を与え、またあっさりノックアウトした。

 

「大丈夫だったか?」

 呆気に取られていた少女に、紫王は手を差し伸べた。

「見えてるぜ、下着」

 そう指摘されて、少女はスカートがまくれてあられもない格好になっている我が身にようやく気付き、小さく悲鳴を上げてレモン色の下着を隠した。

 少女に手を貸し立たせ、紫王は他校ヤンキーの転がっている橋の下から、少女を連れ出した。仁が後ろに続く。

「あっ、あの、神楽森くんと乾くんですよね、同じクラスの……」

 殴られて腫れた頬もそのまま、少女は紫王と仁を見上げた。

「あれ、うちのクラスの子かぁ。ええと、確か」

 仁が記憶をまさぐると、

「……久慈です。久慈瑠璃《くじるり》。助けてくれてありがとうございました」

 瑠璃と名乗る少女は、丁寧に頭を下げた。

 

 久慈瑠璃、という少女のことは、紫王も仁も知っていた。

 全く派手なところのない、休み時間には本を読んでいる姿を見かけることが多い、ごく大人しい優等生タイプの女生徒だ。他の同級生たちのようにスカートをミニに改造することもなければ、かけている眼鏡をコンタクトに変えることもない。長い髪は脇で一つにまとめている。

 だが、実際に彼女を子細に見れば、その美しさに気付く者は気付くだろう。

 化粧気はないが、くっきりして甘美な目鼻立ちは、ハリウッドの女優のようだ。出で立ちこそ地味だが、その肉体は制服が不釣り合いに思えるほど発達していて、胸などシャツのボタンがはじけ飛びそうだ。髪も手入れが良く、加工した様子もないのに縦ロールに巻いていて、何ともゴージャスなのだ。

 華やかで豪奢な美人なのに、自分の見た目にあまり興味がなく、ごく地味にしている、もったいない、というのが、紫王が瑠璃を見た印象だった。

 

「……ずいぶんひどくやられたな」

 紫王は手を伸ばし、無残に腫れあがった瑠璃の頬に触れた。赤紫色に変色し、膨れ上がって目の形を変えている。口の中も切ったのか、唇の端に血が滲んでいた。

「無茶だぜ、あんなことしたら、殴りかかってくるに決まってるだろ。しかし、あんたみたいな奴でも、あんなに激しくやり返すんだな。ちょっと驚いた」

 紫王がそう言うと、瑠璃はふふっと微かに笑った。

「……夢中で。やられっぱなしは悔しいから」

 この子、なんだか、今まで思ってたのと違うな。

 紫王は何だかどぎまぎするような気分に囚われた。端的に言って、もっと瑠璃のことを知りたい。

「……でも、私も意外に思いました」

「あん?」

「神楽森くんと乾くんが助けてくれるなんて。もっと怖い人かと思ってました」

 ああ、と紫王は空を仰いだ。何だか空が妙に白っぽく見える。

「……怪我、ほっといたらまずいな。仁、何か飲み物持ってるか?」

 そう言って、紫王は、スラックスのポケットから、メントールキャンディのケースを取り出した。

「これ。騙されたと思って飲めよ。傷に効くから」

 彼が掌に出したのは、有名な白いメントールキャンディではなく、茶色い小さな丸薬のようなものだった。

「これ……?」

「俺んちに伝わってる薬なんだ。妖怪から伝わったらしい。いいから飲め」

 仁がペットボトルの茶を差し出して、受け取った瑠璃は丸薬と茶を一緒に飲み下した。

「あれ……?」

 瑠璃は、急激に開けた視界に、はっとして頬に手を当てた。

「えっ……腫れが引いてる……そんな馬鹿な」

 これほどの怪我は、通常、こんな急激に治癒することはない。瑠璃は一瞬で引いた痛みと、舌で触っても見当たらない口の中の切り傷に、呆然とするしかなかった。

「こ、この薬、一体……」

「昔から伝わってる薬だよ。どういう成分とかは気にすんな、俺も良く知らねえから」

 ケースをポケットにしまって、紫王は強引に誤魔化した。仁は、その茶やるよ、と、瑠璃に向かってへらへらしている。

 

「家、どこだ? あいつらの仲間とか来たらマズイから、送っていってやる」

 橋のたもとまで戻ると、紫王は瑠璃にそう告げた。

「……いいんですか」

 瑠璃の表情は、なんでこの人は私にこんなに良くしてくれるんだろうと言っているようなものだった。

「いいんだよ。ついでだ」

 ぶっきらぼうに言い放った紫王の胸の中で、小さな小さなともしびが、ゆらゆら揺れていた。