4-10 恥じらいと懸念

「レルシェント!? レルシェ!!」

 

「揺すっちゃ駄目!! 多分、骨折れてる。今、回復魔法かけるから」

 

 オディラギアスの腕の中でぐったりしたままのレルシェントに、イティキラが回復魔法をかけた。

 

 浅く苦し気だった呼吸が深く穏やかなものになり、蒼白だった頬に血の気が戻ってくる。

 

「レルシェ……」

 

 通路の端に腰を下ろし、腕の中に彼女の重みを感じながら、オディラギアスはそっと彼女の唇の端から垂れた血を拭ってやった。

 

「良かった、命に別状はないみたいでやすね……」

 

 セクメトを収めたジーニックが、オディラギアスの腕の中を覗き込む。

 

「だが、ずいぶんべたべた触られてたみてえだな……まさか、最後まで……」

 

 言いかけて、ゼーベルは口をつぐんだ。

 

「……だ、大丈夫……だと思う、そんな、長い時間、離れてなかったんだし……」

 

 まるで不安に発狂しそうになる自分に言い聞かせるかのように、マイリーヤは口にした。

 

「……触られただけにしても!! 胸糞過ぎるっての!! 何だよ、ジーニック、あんたの兄弟子ってのは!? アタマおかしいのか!?」

 

 イティキラに怒鳴りつけられて、ジーニックは身を縮めた。

 

「……今、思い返してみると、確かに少し頭のおかしい人だったかも知れねえでやす……師匠に気に入られてたから、面と向かって批判はできなかったでやすがね……」

 

 ジーニックの重い溜息を聞いて、イティキラははっと我に返る。

 彼に八つ当たりしても仕方ないことだ。

 それに、彼だってあんな下劣漢に頭を押さえつけられて苦しんでいたに違いないのだから。今の表情で、それが分かった。

 

 ん、と小さな呻き声が聞こえた。

 

「レルシェント!?」

 

 オディラギアスがはっと彼女に目を落とした。

 星雲を思わせる、蒼い目が開く。

 

「……太守様……!? あの……」

 

 レルシェントは、何があったのか記憶が曖昧のようだ。

 きょとんとして、ずぶ濡れの仲間たちと自分の姿を見ている。

 

「大丈夫? あんた、あのジーニックの兄弟子とかいう奴が化けた水轟巨人に捕まってたんだよ」

 

 イティキラが説明すると、レルシェントはまじまじと自分の体を見下ろし、着衣の乱れがあるのを見付けると、ぎくりとした顔になった。

 

「あっ、大丈夫、そんなに長い時間離れてなかったから、その、マズイことには……えっと、その、これも十分にまずいけど……あああ」

 

 マイリーヤがフォローを入れるつもりで混乱している。

 

 ふと、レルシェントは、オディラギアスを上目遣いで見やった。

 

「……ご覧に、なりましたの?」

 

 一瞬、意味を取りかね、すぐに肌を見たかという意味だと気付いたオディラギアスは露骨に慌てた。

 

「いや、あ、着衣を直す時に少しだな……ああ、だが、わざとではないのだ、すまん……」

 

「いえ、お見苦しいところを……それに、最後の最後に足を引っ張ってしまって……」

 

 ほんのりと頬をバラ色に染めてうつむくレルシェントを、思わずオディラギアスは抱き締めた。

 

「いや、私も大して役に立っていなかった。主に今回はジーニックの頑張りだな」

 

 とどめを刺したのも、ジーニックだ、と、オディラギアスは説明する。

 

「さぞや不愉快だったであろうが、あの慮外者がジーニックの関係者だからと言って、彼を責めないでやってほしい……ジーニックのせいではない」

 

「あ、あの、レルシェントさん、元兄弟子がすいやせんでやす!! まさかあいつ、こっちの世界に来てまであんなことをするとは……!!」

 

 平謝りの様子のジーニックに、レルシェントは首を横に振った。

 

「いえ、太守様の仰る通り、ジーニックさんのせいではありませんわよ。あたくしこそ、へまをしたばっかりに皆様に余計なお手間を取らせて申し訳ありませんわ」

 

 あたくしも、まだまだですわ、と溜息をつくレルシェントが、ふと、顔を上げた。

 

「こうはしていられませんわ……奥に進みましょう。ジーニックさんのお兄様が……」

 

 全員が目を見交わした。

 迷いがある。

 全員、精神的にそれぞれの意味で疲れており、休憩を入れたいところではある。

 しかし、先ほど姿を見せた、何故かケイエスの召喚獣を連れた男の姿に、誰もが不穏な意味を見出さずにはいられなかった。

 

「あたくしなら大丈夫です。太守様始め、皆さんに気遣っていただいて回復いたしましたわ。落ち込むならこの後でもできますもの」

 

 そうきっぱりと口にするレルシェントの髪を、オディラギアスは心配そうに撫でた。

 本当は、無理やりにでも休ませる気だったのだが、なるほどケイエスの置かれた状況に想像を巡らせるに、到底のんびりはしていられない。

 

「すいやせん……本当に……」

 

 身を縮めるジーニックの鼻先を、レルシェントはちょんとつついた。

 

「そんな風になさっては、例の死に損ないの下劣漢の方の思う壺ですわ……どこの世界でも、下劣な人は、その方の責任でないことをその方の責任だと言い張って心を押し潰して、コントロールしようとするでしょう?」

 

 はた、と何か気付いたような顔で、ジーニックは目を瞬かせた。

 

「参りましょう、時間がないかも知れませんわ……ありがとうございます、太守様。何だか安心できましたわ」

 

 レルシェントが、オディラギアスの腕から抜け出す。

 

 オディラギアスは、何だか名残惜しいような気分で、腕の中のぬくもりを手放した。