4 真の姿

「あのー……」

 

 佳波は、困惑と共に、周囲を見渡した。

 遠くに、海。

 潮風がここまで流れてきて、佳波の虹色の髪をなぶる。

 眼下に、軍事施設とそこを行きかう米軍属たち。

 そこは在日米海軍司令部の、屋上だった。

 

「ここで何をするんですか?」

 

 メフィストフェレスによって、いきなり屋上に連れ出された佳波は、屋上の排気塔の間でにやにや笑う彼を見ながら、不思議そうな顔をするしかない。

 この人は何を考えているのだろう?

 

 足元で、連れてきたポトが鳴いた。

 

「にゃあ。大体何をするのかは見当つくけどにゃあ。カナちゃんは多分びっくりにゃ」

 

 ポトを見下ろしながら、佳波はますます怪訝な表情が顔に浮かぶのを感じていた。

 つまりはどういうことだ。

 

「さて、じゃあ、始めようか?」

 

 朗らかと言える声で話しかけてきたのは、ダイモンだった。

 先ほどまでのスーツから、ライダーズジャケットにニット、綿パンの小洒落た格好になっている。多分これが普段着なのだろう。

 

「始めるって、何をですか?」

 

 全くわからない。

 きょとんとしたまま尋ねる佳波に、ダイモンが禍々しい笑みを返した。

 一瞬、佳波がはっとするような嗜虐的な表情。

 

 すいっと、メフィストフェレスが排気塔の間に、何かを避けるように歩み入った。

 意味がわからず、佳波がまた何か言おうとした矢先、その異変は起こった。

 

 風が吹いた。

 思わず目を閉じなければならないほどの突風。

 

 佳波が目を開けた時に。

 目の前に、凶悪に輝く魔神が浮かんでいた。

 

 地獄の炉を思わせる、あかがね色の皮膚の巨体。

 筋肉質な体躯に、額にはそそり立つ一本の角。

 地上の全てを笑いのめすかのような表情を強調する、顔の文様。

 背中には、不気味な鬼火にも似た色彩の、二対の翼。

 獅子のような鉤爪の生えた腕、そして巨大な鷲そのものの脚。

 とどめには、体の後ろに毒針の生えたサソリの尻尾が揺れている。

 

 ごうごうと唸る風に取り巻かれた、それは、おぞましい神性だった。

 

「にゃあ。これは大物にゃ。パズズさんにゃ」

 

 流石に緊張の感じられる声音で断言したのはポトだった。

 

「パズズ……」

 

「ほう、日本でも名前は知られているのか? 嬉しいね」

 

 ダイモンと名乗っていたその魔神が、にやりと笑いを深くした。

 

「俺は、確かにパズズさ。しきりに名前を呼ばれたのはもう遠い昔、砂漠の広がる国でだったけどな。なん十年か前には、いたいけな女の子に取り憑く悪魔ってことにされた」

 

 風の音に交じって、くつくつと喉を鳴らす笑い声。

 

「悪魔どころか、人間様のお言葉で表現すれば、『邪神』ってことになる。まあ、普通の人間に、俺に対抗する手段はない訳さ」

 

 唖然として見上げていた佳波の脳裏に、学生時代のひところ、しきりに見返した古い映画が浮かんだ。

 悪魔憑きのおぞましさを表現した映画だった。

 このパズズが幼い女の子に憑依するという内容だったか。

 あの映画は間違ってるな、と佳波はぼんやり思う。

 これほどの力がある邪神が、なんの力もない女の子を悩ますものか。

 それは旧い、風の邪神なのだ。

 竜巻でも送り込んで、その国の主要都市でも潰した方が、よっぽど効率よく人間社会を破壊できるだろう。

 

「さあて、こういうのは気が引けるけどな!!」

 

 いきなり。

 強烈な熱風が佳波を襲った。

 ばしばし皮膚に当たるのは、焼けた砂だろう。

 何かが剥ぎ取られるような感触……

 

 いきなり。

 視界が開けた。

 

 宙空に浮かんでいたパズズと同じくらいの位置に、目の高さがあるのを、佳波は意識することができた。

 同時に、視界に違和感を覚える。

 なんというか、横に広い。

 風景写真集などにある、パノラマカメラで撮影した風景が、実際の視界に展開されている感じだ。

 同時に。

 全身に、異様な力がみなぎるのを、佳波は感じた。

 身体的な限界というものを、まるで意識しない自由さ。

 今なら大陸一つでも破壊できそうだ。

 精神的にも、限界が広がったと感じる。

 遠くの海と船、街並み、人間の息遣いに、上空の気流、全てを神のように認識していた。

 

 牙がひらめいた。

 

 パズズを、いくつもある口の一つでがっきと捕らえてから、佳波は自分自身の肉体を意識した。

 

 自分の体が。

 

 佳波は気付く。

 自分は、人間ではなくなっていた。

 

 虹色に光り輝く、九つの首を持つ龍蛇。

 それが、自分だった。

 ある首からもう一つの首を見やると、光そのもののような、二列に並んだ角が見えた。

 幾重にも折りたたまれた全身でも、屋上のかなりのスペースを覆いつくすほどの巨大さだった。

 ぞろりとした牙だらけの口の一つにくわえたパズズは、人間なら一口大の食べ物みたいに頼りなく見える。

 

「ふうう。わかったろ? これが君の正体さ」

 

 一時的に、人間としての「皮」を吹き飛ばしたのさ、と、パズスが説明する。

 

「君の力はわかった。離してくれないか。君は、俺みたいな存在でも殺せる。しかしだ、俺はまだ死にたくないんだ」

 

 君は酷いことなんかしないだろう?

 なだめるように言われて佳波だった九頭龍は、はっと口を開けてパズズことダイモンを解放した。

 さすがに緊張していたのか、風の音にダイモンの安堵の吐息が混じる。

 

「こういうことさ。君はこういう存在だ――認識してくれたかね?」

 

 呆然に近い状態の佳波に歩み出てきたメフィストフェレスが、はるか下から話しかけた。

 

「さて。これからの君の身の振り方について提案がある。まさか、普通に暮らしたい、なんて無茶は、流石に言えないんじゃないかな?」

 

 面白そうに笑うメフィストフェレスに、今や九頭龍になった佳波は、怒ることすら忘れていた。