6-1 夜間飛行とナリュラ

「ふう……ああ、お風呂に入りたいわ……」

 

 空の高いところに舞い上がり、夜風に逆らって東へと進む飛空船の上で、レルシェントは思わずといったように洩らした。

 

「……疲れたようだな。もう少し飛んだら、どこかに降りて休めればいいのだが」

 

 オディラギアスは、舳先に立つレルシェントの背後に近付いた。

 

「……あんな目に遭わされたのに、何もできなくてすまない……」

 

 低い、忸怩たる感情が滲む声は、ごうごう鳴る夜風を通しても、はっきり聞こえた。

 

「いいえ。ご心配して下さってありがとうございます。確かにおぞましい思いはいたしましたが、命に関わるようなことはされませんでしたから」

 

 ふっと振り返って微笑むレルシェントのその悲し気な表情を、イティキラが見咎めた。

 

「……レルシェ? どうしたってんだい、あたいらがいない間に、あいつらに何かされたのか?」

 

 獣の四つ足で、音もなく近付いてくる彼女に、レルシェントは努めて笑いかけた。

 

「霊宝族的には非常にまずいことではあったのだけど、でも、命に別状があるようなことではなかったわよ。……あの、ミーカルという男に、額の宝珠をべたべた触られてね。極めつけに気分が悪かったわ」

 

 えっ、と小さな声を出したのはマイリーヤ。

 

「大丈夫だったの? その宝珠、傷付いたら死んじゃうんじゃなかったっけ?」

 

 イティキラの脇をすり抜けて、彼女はレルシェントに近付いた。もし昼の光の中だったなら、顔色が青ざめているのが分かっただろう。空にかかる月の光の下では、それが目立たない。

 レルシェントは、首を横に振った。

 

「素手で触られたから、幸い傷は付かなかったの。ただ、まあ、赤の他人に触られてぞっとはしたけれども」

 

 ちらと浮かべた苦い表情が、レルシェントの本心を物語っていた。

 

「なあ、その額の石、普通は素っ裸見せても問題ないような相手にしか触らせないようなもんって話じゃなかったか? 知らなかったのかも知れねえが、胸糞悪ぃな、そのミーカルってやつ……」

 

 するりと近付いてきたゼーベルが、苦々しい表情を浮かべる。

 と、オディラギアスが盛大な溜息をついた。

 

「……私のせいなのだ。うっかり、そのことを相手に伝えてしまった。奴は、それで笠に着てレルシェをべたべた触り始めてな……止めたかったが、銃を突きつけられて」

 

 オディラギアスの胸から腹にかけて重苦しいのは、じりじりとはらわたを炙られているような不快感があるのは何故だろう。

 

「太守様、そんなにあたくしのことを心配して下さらなくても大丈夫ですわ。あの時も申し上げましたけれども、実際、あの時、あたくし以上に危険だったのは、立場的に太守様の方でしたのよ」

 

 レルシェントはふっと微笑みかけた。

 

「いや。それとは別の問題だろう。……目前で、仲間の女が性的な侮辱を加えられているのに何もできなんだとは……私としても屈辱だ。すまない……」

 

 重苦しい吐息を洩らすオディラギアスに、レルシェントは優しい目で微笑みかけた。

 

「ありがとうございます。そのお気持ちだけで、救われるような気がいたしますわ」

 

 むう、と側に来て唸ったのは、珍しいことにジーニック。

 

「とんだ痴漢野郎でしたでやすね。あの時、踏んづけないように気を遣ったりして損したでやんすよ。踏んづけて鼻でも潰してやりゃ良かったでやすね……」

 

 あのニレッティアの面々がゼーベルの太刀の魔力で倒れた時のことを思い出したのか、ジーニックは腕組みして顔をしかめた。

 色々あったからなのか、自分と同じくらいに酷い目に遭った仲間にある意味救われたのか、ジーニックの表情から、以前の救いのない憂いは消えている。

 

「むふふふ、いい感じですねー」

 

 不意に背後から銀の鈴を打ち振るような声が聞こえて、一同ははっと振り返った。

 

 月光の差す、船の甲板。

 そこにいたのは――華麗な衣装の、生きている磁器の人形。

 ナリュラだった。

 

「……!? あなたは!?」

 

 レルシェントの魔力感知は、その存在が単なる魔物の類ではないと教えたが、それでも咄嗟に「何者なのか」の判別はつかない。ぎくりとして固まった。

 

「貴様、何者!!」

 

 魔力による識別能力を持たないオディラギアスの反応は、もっと直截的だった。

 槍を構え、鋭く誰何(すいか)する。

 

「あっ、違いやす、違いやす!! こちらは、敵ではないでやんすよ!!」

 

 慌てて、ジーニックが声を張り上げた。

 

「待って、二人とも!! この人形さんが、あたいらを地下牢から解放してくれたんだ」

 

 イティキラが慌てたように叫んだ。

 レルシェントも、オディラギアスも、怪訝な顔を見せる。

 

「どういうことだ、こやつは魔物では」

 

「ふふふ!! 私は下等な魔物ではありませんよー!!」

 

 ナリュラは無造作な足取りで、すたすたとオディラギアスの槍の矛先のすぐ前までやってきた。

 彼は気を呑まれたように立ち尽くした。

 

「私はナリュラ。他の皆さんにも申し上げましたが、遊戯神ピリエミニエ様の神使ですよー」

 

 磁器のはずの整った顔でにっこり笑いかけられ、オディラギアスは思わず目を見開く。

 

「神使……遊戯神ピリエミニエの神使だと!? そんな馬鹿な」

 

 流石にオディラギアスもにわかに信じがたい。

 この世界の主宰神の神使が、地上種族の目前に姿を現すなど、神話の世界の中の出来事だ。

 

「……やはり、この一連の出来事には、遊戯神ピリエミニエ様のご意思が関わっているのですね?」

 

 レルシェントは、瞬時にナリュラの存在する意味を見抜いた。

 

「教えてくださいますか? 神使様。ピリエミニエ神は、どういったご意思で、あたくしどもにこのような運命を差し向けたのかを」

 

 ナリュラは、満足したように、レルシェントを見詰めた。にこにこしている。

 

「んんん、バランスのいい二人ですねぇ。実際的な男性と、本質を見抜く女性。いいですよいいですよ、あの方々が想定していた通りに、いい感じですよー」

 

 一見意味不明なことを言われ、レルシェントとオディラギアスはぽかんとした。

 思わず顔を見合せる。

 

「その質問の答えは一つ――このまま、先に進んで下さい。この旅が極まったその時、明らかになります」

 

 すっと、ナリュラは小さな手の中に、何かが詰まったらしい革巾着と、ダイストレーを出現させた。

 

「はい。これ、あなたの分の『運命の骰子(ダイス)』です。どうぞ」

 

 差し出され、オディラギアスは思わず受け取る。

 

「これは……」

 

「何かね、その骰子を振ると、不思議なことが起こるの!! 奇跡みたいな!! それでボクたち、地下牢から脱出できたんだよ!!」

 

 素早く、マイリーヤが口を挟んだ。

 

「太守さんのってどんなん? 見せて見せて?」

 

 好奇心に駆られて近付いてくる妖精族を横目に見ながら、オディラギアスは巾着の中身をトレーに開けてみた。

 

 まるで何かの骨、あるいは象牙のような、つやつやした白いものでできた骰子が転がり出て来た。

 数字は金泥で描かれ、絵柄は咆哮する龍、つまり世界龍バイドレル――龍震族を造り出した守護神の紋章だ。

 不思議なことに、それは真新しい訳ではなかった。

 何者かが大事に使い込んだように、飴色を帯びた柔らかい色に変色している。

 しかし、古びてはいるが劣化している様子は見えず、年月を経た上品な変化の様子を見せている。

 

 オディラギアスが自らの「運命の骰子」に気を取られている間に、レルシェントはやはりナリュラから、自らの「運命の骰子」を受け取っていた。

 それは、星層石を削り出した10面ダイスで、塗料というより光そのものを固めたように、数字の部分が発光していた。縁の部分のは鏡銀らしき金属で、装飾兼補強がしてあり、何となくアクセサリーめいたものを思わせる。

 幾つもの輪が角度を変えて重なった独特の紋章は、もちろん、霊宝族の守護神、星宝神オルストゥーラのもの。

 

「ふふふ、今は振る時期ではないでしょうねー。でも、使う時はくるかと思いますよ?」

 

 ナリュラはきょとんとしているオディラギアスとレルシェントに笑いかけた。

 

「ま、もうちょっと首都から離れたら、人気なない場所を探して例の魔導具でキャンプするといいですよ。ふふふ、個室もあるし、仲良くなるチャンスですよ?」

 

 ませた子供のようにむふふと笑われ、思わず二人は顔を見合せた。

 

「じゃっ!! また会いましょうー!!」

 

 上機嫌なナリュラが空気に溶け込むように消えても、レルシェントとオディラギアスは、互いの顔から眼を離せなかった。