漆の陸 江戸城へ

 どんどんどん。

 

 鈍い音で花渡は目を覚ました。

 

「おーい、お姉さん! いるんでしょー? まだ寝てるのー?」

 

 あの声は千春だな、と花渡はぼんやりした頭で思った。

 傷んだ畳の上で小袖のまま無理矢理眠った体はぎしぎしいっている。

 

 あの夢は。

 

 未だに空気、というか広がりそのものが揺らいでいるような気になる。

 だが、周囲は至って正常だ。

 

「お姉さーん、おーい!!」

 

 どんどんと、まだ千春は戸を叩いている。夢はとりあえず後回しだ。

 

 眠い目をこすりながら社務所の玄関に出ると、千春ともう一人、黒い影が立っていた。

 

「千春……黒耀殿」

 

 そう言えば城に上がるから迎えを寄越すと、昨日言われたらしいことに、花渡はようやく思い至る。

 

「朝早うに申し訳ない。のんびりしている時間はない故に。御前を江戸城までお連れし、主にお会いいただく」

 

 黒耀は仕草で背後を示した。

 

 花渡が昨日着替えと共に黒耀の影渡りで辿りついた花渡神社のその前に、豪奢な駕籠が三基、待機しているのが見て取れた。

 

 見た目だけ見れば、どこぞの大大名とその奥方と娘の一行に見える。

 

 いずれも黒漆塗りの、最高級のシロモノだ。

 一つは相応の格のある旗本大名が使うような男駕籠だが、後の二つは、一面に螺鈿を施した、絢爛豪華な武家用の女駕籠だった。

 見ると、それぞれ四人の駕籠かき人足の他に、護衛と露払いの武士、小者が控えていた。

 

「もしや……これに乗れと?」

 

 駕籠になぞほとんど乗ったことがない。

 ましてこんな豪華なシロモノに。

 ちょっとした大名の外出ではないか。

 いくら何でも大袈裟な。

 

「無論、お城に上がるからには、それなりの格式が必要なのじゃ。こういうのは慣れぬかも知れぬが、辛抱していただこう」

 

 反論など思いもつかぬ揺ぎ無い口調で、黒耀は言い渡した。

 

「しかし、衣装はどうしたものだろうか……旗本の女衆の護衛はしたことがある故、羽織くらいはあるが、それでは」

 

「だいじょーぶっ! お姉さんは普通の格好でいいのっ! あたしらだって、幕府のお役付きなのに、こんな格好でしょ?」

 

 戸惑う花渡に、千春は自分の祭り帰りのような格好を示した。

 

「あたしらには、『着物お構いなし』の決まりがあってね。宿している神様に遠慮して、着る物の決まりを押し付けないっていう決まりが……」

 

「千春! まだそういうことは言うなと申したであろう!」

 

 黒耀が千春に拳固を降らせた。

 

「とにかく、花渡殿、お支度を。主は既にお城で待っておる」

 

「……分かった」

 

 既に逃げ出す選択肢は消えている。

 花渡は社務所の上がり框で二人を待たせ、部屋に引っ込んで手早く支度した。

 

 深紫に金糸銀糸で華文を縫い取った豪華な小袖と花菱文を織り出した袴、羽織は緋に地獄蝶極楽蝶と蘭と雲を散らせたものだ。

 取って置きの絹の組紐で髪をいかにも若武者な風情にまとめる。

 花渡の精一杯の「礼装」である。

 無論、神刀を背中に括りつけてある。

 

「よっし、いこかぁー!」

 

 千春が社務所から出てきた花渡の腰の後ろをぐいぐい押す。

 

「太刀をお預かりせよ」

 

 黒耀が供の一人に声をかける。

 花渡は進み出てきた小者に、神刀を背から下ろして預けた。

 重さで小者がふらつき、結局もう一人呼んで二人がかりで担ぐことになった。

 

 花渡は観念して駕籠に乗り込んだ。

 扉が閉められ、しばらくしてぐいと持ち上げられる感覚がした。

 

 花渡の乗った駕籠は、黒耀と千春の駕籠に囲まれる形で、江戸の町を進んで行った。

 

 一旦駕籠に乗ってしまえば、することもない。

 花渡は独特の調子に揺られながら、昨夜の夢を反芻した。

 

 江戸の大地の奥底にいた、あの化け物。

 モノですらないと、父母は言っていた。

 

 では、あれは何だ。

 モノ以外の化け物など、見当が付かない。

 たしかその昔、母に「モノ」と「あやかし」が違うというような話を聞いた記憶がうっすらとあるが、花渡には正直その区別も曖昧だ。

 あやかしは昔話などで語られる、人間とは違う種類の生き物だと、母はそんなことを言っていた。

 人間にとって有り難いこともままある、しかし、モノは全く違うのだと。

 花渡には、昔も今もどう区別を付ければ良いのか分からなかったが。

 

 あれが「あやかし」なのだろうか?

 いや、どうも腑に落ちない。

 あれは、そんなものではない。もっと性質の悪い、恐ろしいものだ。

 

 その存在のことを考えると、花渡は全身にぞわぞわと悪寒が走ってくるのを感じた。

 単純に、巨大で恐ろしいから、などという話ではない。

 あの、いるだけで万象を歪ませそうな、負の存在感。

 あの存在自体が、確かに、この世にとって途轍もない障りなのだ。

 

 あれの名は――

 

 思い浮かんだその名を、花渡は咄嗟に頭の奥深くにしまい込み、心の表層から遠ざけた。

 考えない方がいい。

 ほとんど閃光のような直感が、そう囁いたのだ。

 

 あれの名を、花渡は知った。

 内なる伊耶那美が耳打ちしたのだ。

 同時に、軽々しくその名を呼ぶことを禁じた。

 ただ名を呼ぶ、それだけが禁忌なのだと、花渡は理解した。

 どれほど恐ろしい化け物なのか。

 

 だが……

 その恐ろしいものを呼び出そうとしている者がいるのだ。

 

 金地院崇伝《こんちいんすうでん》。

 

 誰だったかな、と花渡は頭を捻った。

 聞いたことのあるような気がするが、思い出せない。

 名前からしてそれなりの高僧なのだろう。

 江戸城にいる、千春たちの主とやらに尋ねれば、間違いなく答えは返ってくるはずだ。

 幕閣、それも神仏に関わるお役の幕閣が、高僧を把握していないとは考えづらい。

 少なくとも何がしかの記録は残っているだろう。

 

 考え込む花渡を余所に駕籠は進んでいた。

 途中で何度か、モノに襲われた。昨日ほどではないが、モノはまだ江戸を徘徊している。

 その都度駕籠の外に出て渡り合おうとした花渡だったが、粗方は駕籠の外に身を乗り出した黒耀の、あの全てを無に帰する暗黒をぶつけられてこの世から消え去った。

 闇とも形容しようのない闇をぶつけられた途端、モノの肉体が飲み込まれて消えるのだ。

 昨日、あの溜池を襲撃したモノが一撃で消え去らなかったのは、馬鹿でかすぎるのと、体を水に浸していて不死の再生力を身に着けていたからだろう。

 

 そう言えば、昨日共に戦った者たちは、みな、自分と同様に神をその身に宿しているのだろうか。

 

 千春は言霊を操り、黒耀は闇を、陣佐は炎を、そして青海は水を操っていた。

 どういった神々が、かの者たちに力を貸しているのだろう。

 そして、そんな奇瑞を可能にしているのは誰なのか。

 並みの人間でないのは確かだが、花渡には見当がつかない。

 

 とにかく、今は千春たちの主に会い、こんがらかった疑問を解き、本当は何が起こっているのか確かめねば。

 

 ちらりと、花渡は駕籠の覗き窓から江戸の町を窺った。

 折れ曲がった民家の板壁や、焼けぼっくいになった長屋の残骸が見える。

 

 昨日より幾分マシとは言え、モノに痛めつけられた町に活気はない。

 時折護衛付きの大八車や、モノを始末することで日銭を稼いでいるのであろう浪士などが、仕方なしに行き来するくらいだ。

 

 荒廃した江戸の町に、花渡の胸は痛んだ。

 なんとしても、これを終わらせなければならぬ。

 江戸の何気ない日々を取り戻すのだ。

 モノはまだ出没し続けている。

 根を絶つには、まず何が起こっているのかを正確に知らなくては。

 

 駕籠はいつしか、大名屋敷が立ち並ぶ一角に入り込んでいた。

 石組みと海鼠壁、その上の所々に日窓の開いた白壁が見える。

 

 運ばれていく感覚、それと覗き窓の外の風景を併せて考えるに、城の南をぐるっと迂回して西側に回ろうとしているようだ。

 

 ここいらは江戸城の外堀の中で、昨日清めた溜池の水が巡っているせいでモノが寄り付かない。

 にわかにざわめいていた空気が静かになった。

 駕籠はしずしずと進む。

 

 花渡は、改めてこれから城に上がるのだという緊張感を覚えた。

 恐らく一生城になぞ縁がない暮らしをするのだと決め込んでいたのに、何の冗談だと正直思う。

 だが、もう後戻りなどできはしない。

 ある意味、自分は人間でなくなったようなものなのだから。

 強すぎる力を制御したい何者かが接触してくるのは必然だ。

 問題はそれが誰かということ。

 

 やがて駕籠は、黒漆塗りの巨大な門の前でぴたりと止まった。

 

 促され、花渡は駕籠を降りた。

 目の前にあるのは、重々しい漆黒の城門。

 堀の上に渡された幅広い石橋が、花渡たちとその門を繋いでいる。

 門の造りは最早一軒の屋敷のようだ。

 門の上は幅広い櫓のようになっており、その上に火筒と弓で武装した、陣笠姿の足軽が警護に当たっているのが見える。

 本来ならこの時間は門扉が開け放たれているはずであるが、流石に状況が状況だけに今は固く閉ざされていた。

 

 駕籠の先導をしてきた侍が、大声で警護している者たちに呼びかけ、開門を促した。

 

「ここね、半蔵門っていうの。お城の西にある門ね」

 

 とてとてと花渡に近付いてきた千春が解説を始めた。

 

「あたしらが普段詰めてる建物は吹上のお庭の中にあるの。だから、出入りはいつもここから」

 

 江戸城内吹上には、将軍家と血縁のある、紀伊、尾張、水戸のいわゆる御三家の屋敷がでんと構えている。

 その更に奥は吹上のお庭と称され、こんんもりと茂った森となっている。

 神君が江戸入府前からの武蔵野の森が残されているのだ。

 花渡は塀越しの緑の連なりを眺めながら、何となく鎮守の森を連想した。

 

 重い音と共に、城門が開いた。

 

「さ、ついて参られよ」

 

 先に立った黒耀に促され、花渡は門をくぐった。

 

 流石に時節も時節、花渡たちが城内に入ると、途端に門扉が閉められた。

 周囲は気持ちの良い木立が生い茂る一角だ。

 その向こうに立ち並んだ、豪勢な武家屋敷。

 その更に向こうの彼方には、黒々とした威容を誇る江戸城天守閣が見える。

 

 江戸城にやって来たのだ。

 花渡は実感した。