捌の参 続巌流島

 薄暗い堂内に、深い響きの声が木霊していた。

 

 護摩壇で燃え上がる炎が、複雑な陰影を描き出す。

 その只中で、天海は朗々と真言を唱えていた。

 

 目の前に掛けられている絵には、青黒い肌に頭が八つ、腕が十六の凶悪な姿が描かれていた。

 装飾品のように赤い蛇を身に纏い、髑髏を連ねた首飾りを掛けている。

 憤怒の形相は気の弱い人間なら気絶しかねぬ迫力だ。

 その絵姿は人間よりも大きい。

 

 炎が高く噴き上がり、天海は供物を並べた台から布製の人形を取り出した。

「金地院崇伝」と、恐らく血を混ぜた墨で記されたそれを、天海の手が炎に投げ込んだ。

 

「これなる大逆の者、金地院崇伝に、大元帥明王の至尊の鉄槌を下しおかれるべし。仏弟子南光坊天海、今ここに壇場を結界す。仰ぎ願わくば、この御修法によりて金地院崇伝並びに配下のモノども、残らず灰燼に帰せしめんことを」

 

 大元帥御修法《だいげんみしほ》。

 

 国家危難の時にのみ、特別に修することが許された大修法を、天海はただ一人、自らの全精力を振り絞って行っていた。

 ひたすら唱える真言に応じたように、炎はますます燃え盛る。

 もっと燃やすべき怨敵をくべよと呼び掛ける

 

 本来、たった一人で行うような修法ではない。

 負担があまりに大きすぎるからだ。

 しかし、やらねばならなかった。

 広い日の本を探せば一人や二人、この修法を執り行える者が見付かるだろうが、その者たちを探し出し呼びつけている時間などない。

 

 黒耀たちには、自分も修法で手を貸すからと通達してあるが、それがよもや大元帥御修法だとは、その中の誰一人思い至らないであろう。

 特に黒耀は肝を潰すはずだ。

 

 全ての集中力と精神力を振り絞り、天海はますます高らかに真言を唱えた。

 応じた炎が噴き上がり、一瞬野外のような明るさで堂内を照らし出した。

 倒すべき敵は、この遥か彼方。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 地下へ通じる穴倉の中は、案の定、モノで満ちていた。

 

 花渡の剣が奔り、陣佐の炎が猛る。

 千春の言霊は従わせ、青海の水は清める。

 そして黒耀の無が全てを葬る。

 

 御霊士たちは、確実にモノを葬っていった。

 が、きりがない。

 当然でもあろう。

 太古の昔から今までどれほど多くの死者がその魂の汚穢によってモノと変じられてきたか、考えるだけでも恐ろしい。

 特にこの地獄の内部のような場所は、『呼ばれざる者』に近いだけあって特に瘴気が強い、強力なモノが揃っていた。

 うっかり気を抜くと、恐らく御霊士たちでも苦戦しかねぬモノだ。

 

「地獄の底に通じる穴だねえ、ここは」

 

 という青海の感想が、全てを物語っていた。

 

 一体どこまで深いのか分からぬ程、穴は続いていた。

 一応石畳らしきもので舗装はされているのだが、生き物の体の内部のようなどろどろした何かがへばりついて時折脈動し、生臭いとも何とも言えぬ、異様な臭いを漂わせていた。

 

 時折部屋のようになっている場所があり、そこには恐らく番人役だと思われる、特に巨大なモノがいた。

 二階家より巨大なモノを収納できる程に部屋は大きく高く、戦いは情け容赦なく行われた。

 流石に他のモノよりは手強いが、御霊士が五人揃えばどうにかねじ伏せることができた。

 

 いや、花渡の浄化の花がなければ、モノの吐き出す瘴気で倒れたのやも知れぬが、その淡い香りに包まれている御霊士たちには、モノの瘴気が粗方通じない。

 後は直接体を傷付ける攻撃に気を付け、力で押し切れば良かった。

 

 しかし。

 

「ねぇ、貼り紙してあるよ、あの部屋」

 

 千春がとっとっとっと前に進み出た。

 石の扉にべたりと貼られた、大判の紙の前に立ってそれを見上げる。

 

「告、これより先に進まんとする者、我を倒すべし……宮本武蔵ぃ!?」

 

 端正とは言い難い字で記された内容を読み上げ、驚きで語尾を跳ね上がらせた。

 

「なるほど、自ら門番を買って出ている訳か。向こうからすれば、殊勝な心がけなのだろうな?」

 

 花渡は嘲り笑う。

 

「侮らぬ方が良い。前とは違うやも知れぬ」

 

 黒耀が警告を発した。

 

「前に会うた時は、人間の姿形をしていたのであろう? 恐らくその姿では、完全にモノとしての力が振るえなかったのじゃ。今度は、彼奴に心地よい瘴気が溢れている場所。同じように人間の姿に収まりかえっているとは到底思えぬ」

 

「奴も、本気を出してくると……ふむ」

 

 人間の姿では花渡の敵ではなかった武蔵だが、モノとしての奴には出会っていない。

 本性を現せば、また違う戦いになるやも知れぬ。

 

「でもさ、いずれにせよ、ここを通らなきゃならないこた、変わりないんだろ? 全員でやりゃ何とかなるんじゃないのかねぇ、今までみたいに」

 

「いや。ここは私に任せてもらいたい」

 

 青海の言葉に、花渡はきっぱり反対した。

 

「奴は親の仇なのだ。せめて自分の手で仇を討ち果たし、両親の無念を晴らしたい。すまんが、私にも武士の意地というのがあったようだ」

 

 武蔵の正体は知らないし、実力も推し量れないが、それでも花渡は仇討ちの機会を逃したくなかった。

 母から聞いた父の最期はあんまりだ。

 母も結局似たような目に遭った。

 一人娘の自分が仇討ちせずして、正義も何もあったものではない。

 

「俺も花渡の気持ちが分かる。皆、花渡に武蔵の奴と尋常勝負をさせてやってくれまいか。それを邪魔するものがいるなら、俺たちで片付ける。それで良いのではないか?」

 

 生まれつき武士の陣佐が真っ先に加勢した。

 

「うむ。だが、情に流されてお役目を忘れる訳にはいかぬ。花渡で手に負えないと判断したら、我らも戦うぞ。そも、武蔵と崇伝、それに『呼ばれざる者』との接点がいかなるものだったのか、確かめねばならぬ故」

 

 それは花渡にも分かっていた。

 それによって、この事件が結局どんな終わりを見るかも変わってくるかも知れないのだ。

 

「何かさ、悪い予感がするんだけど……何がどうってんじゃなくて、これって罠なんじゃない?」

 

 千春は至極真っ当な懸念を示した。

 天海大僧正すら気付かぬほど密やかに周到に、この江戸の混乱を準備した人物が、これではあまりに馬鹿正直過ぎる。何かは仕掛けてくるだろう。

 

「行くぞ」

 

 花渡は、扉に手を触れた。

 人間離れした怪力でも手こずりそうなそれは、触れただけでゆっくりと開いていった。

 どういう仕組みなのかは分からぬが、これまでと同じ仕掛けだ。

 

 鬼の一群の宴会に使えそうな程に広い内部が露わになった。

 

 五つの影がある。

 そのうち四つは、全体的に巨大な人に似た、しかし頭だけはやけに綺麗な色合いの疣のようなものに頭を覆われた蛙に似ているモノだった。

 黒に近い褐色の皮膚は、ぬるぬるとした粘液に覆われて、足下にぬっとりした水溜りを作っている。

 手には人間程にもばかでかい、鉈をそれぞれ持っていた。

 

 しかし、それらより大きな影が一つ。

 

「待ちかねたぞ小娘!!」

 

 言葉を発したのは、見上げる程に大きな蜘蛛に似ている何かだった。

 

 針金のような剛毛に覆われた、膨れ上がった胴体と八本の足には銀色に黒のうぞうぞした紋様がある。

 蜘蛛の頭に当たる部分は、まるで蛇の鎌首のように立ち上がり、やはり馬鹿でかい人間の上半身になっている。

 その両腕は、さながら蟷螂の前脚に似て、鋭く長い刃になっていた。そしてその顔は。

 

「その不細工なのがお前の正体という訳か。そんな化け物になって何がしたいのだ、ん?」

 

 花渡が露骨に武蔵を嘲笑した。

 武蔵の今や青黒い顔色が真っ黒になった。

 人間で言うなら怒りで紅潮したようなものかも知れない。

 

「この俺を倒したら、お前らが探しているお方の居場所を教えてやるぞ。言っておくが、この姿になったからには負ける気はない」

 

 武蔵が威嚇するように、刃と化した両腕で構えを取った。

 本来なら二天一流の二刀流の構えなのであろう。

 こんな姿になってもまだ、剣豪の面影は残っているものだ。

 

「数を合わせた、ということは、私と一対一が所望か?」

 

 花渡は神刀をすっと構えた。

 武蔵は今や上半身だけでも人間の三倍ほどにもなっているが、花渡の神刀なら斬り伏せるのは容易だ。

 四体のモノと、モノと化した武蔵で、丁度御霊士と数が合う。

 おかしいな、と思ったのは花渡だけではなかった。

 

「油断するでない、花渡。こんな姿になり果てるような奴が、そんなに公正明大な訳がない。何か隠しているぞ」

 

 黒耀の警告に、花渡は頷いた。

 

「分かってる。しかし、こやつを倒さねば先に進めないのも事実だろう。こいつの言い草からして、崇伝の元に行く何かしら特別の方法があるのかも知れない」

 

 小声で早口に囁かれ、黒耀はむぅと唸った。

 

 そんな様子を見た武蔵がにいと笑った。

 そして、軽く刃の腕を動かして合図を――

 

 しまった、と思った時には遅かった。

 

 蛙と人の合いの子のようなモノどもは、本物の蛙とは違う、金物の軋むような鳴き声を上げ始めた。

 凄まじい騒音だ。

 

 その騒音の中で、御霊士たちがぐらりと揺れた。

 声を聞いたその途端、頭の中に直接手でも入れて掻き回されるような、異様な不快感が御霊士たちを襲った。意識が集中できない。

 

「くっ!」

 

 鳴き声を上げながら、振り上げた鉈を雪崩れ落とすモノの攻撃を、陣佐が何とか受け止めた。

 しかし辛うじて、という感が否めない。

 頭がぐらぐらしているせいで、体勢が崩れる。

 

 青海が咄嗟に凍てつく力を風に乗せて放つ。

 本来だったら大池丸ごと一つ凍らせるそれは、一瞬蛙のモノに氷を貼り付かせたけれど、すぐに粉々にされてしまった。

 

 黒耀の「無」も切れ味が鈍い。

 飛来した無は、蛙の腕一本消し去ったが、後からすぐに生えてくる。

 

 千春の言霊は、ぎしゃぎしゃいう凄まじい合唱の中で他の耳には届かなかったけれども、発された以上は効力を発揮した。

 四体のうち一体の動きがぎしりと止まったのだ。わずか、鳴き声も止まる。

 が、次第に言霊の支配が揺らぎ、枷を無理やり押し外すような動きで蛙が再び動き出した。

 鳴き声も元通りだ。

 

 これがあるが故の、武蔵の自信だったのだ、と花渡が思う時間はなかった。

 

 変則的な軌跡を描く二刀流の刃が、花渡を追い込んでいた。

 花渡に限っては、騒音蛙の鳴き声はそれほど効果を現さなかった。

 しかし、これでは仲間を人質に取られているに等しい。

 それに、正体を現した武蔵の腕の冴えは侮れなかった。

 花渡の神刀ほどもある穢れた刃の二刀流は、花渡も本気を出さねば凌げない程。

 明らかに、人間の姿を残していた頃とは程度が違う。

 花渡としては仲間を助けに行きたいが、それがまるでできぬ怒涛の攻撃だった。

 

 花渡の目の前の石床を、武蔵の横薙ぎの刃が切り裂いた。

 切れ味も恐ろしく、ほとんど速度を落とさずに刃腕が振り抜かれる。

 が、その角度を花渡は待っていた。

 

 翻った神刀が、武蔵の片腕を伸ばした肘の辺りから切り離していた。

 悲鳴は鳴き声の騒音に掻き消される。

 花渡は一瞬の隙を突き、振り向きざまに走った。

 

 肩から血を流した青海が倒れていた。

 まだ扇を無事な方の手で持っているが、美しい顔が苦痛に歪み、神威を迸らせるのは難しいと一目で分かる。蛙が鉈を振り上げた時――

 

 斬! と神刀が走った。

 

 蛙が真っ二つに両断され、見る間に消え行く。

 

 続いて膝をついた陣佐を両断しようとしていた蛙を、真後ろから逆に両断する。

 これも呆気なく消えた。

 

 千春を助けようとした時、武蔵が追いついてきた。

 怒りのあまり何事か叫んでいるが、まだ二体残っている蛙の放つ騒音で聞こえない。

 どちらにせよ、武蔵は再生した両腕をそれぞれ違う角度で振り下ろした。

 必殺――と見えて、花渡はそれを避けていた。

 武蔵の太刀筋に思い切りが足りなくなっていた。

 

 踏み込んだ刹那。

 武蔵の体から、銀色の奔流が放たれた。

 体の各所を覆う剛毛が、まさに針と化して花渡を襲ったのだ。

 

 咄嗟に首から上は庇ったが、全身に針が突き立つ。

 焼けるような苦痛が花渡を襲った。

 針は明確に、毒を帯びていたらしい。

 

 次に襲った斬撃を、花渡は間一髪で避けてみせた。

 動く度に苦痛が注入される。

 毒が回り、目がくらんだ。

 

 頭の上からばさりと何かが落ちてきて、花渡ははっとした。

 空中に残った髪の束の先端が切り落とされたのと、結い上げている組紐を武蔵の刃腕が引っ掛けて切り裂いたのだと気付く時間もなかった。

 

 水のように波打つ黒髪が広がった。

 

 武蔵が再び針を放とうとしているのを、花渡は察知した。

 咄嗟に横に飛び退く。

 動く度苦痛が襲うが、今はそれを感じる暇もない。

 

 振り下ろされた刃腕の上に、花渡は飛び乗った。

 ぎょっとした武蔵が一瞬固まった隙に、一気に腕を駆け上がる。

 目の前に青黒い巨大な顔が見え、その中に映る花渡に向かい、花渡は神刀を突き出した。

 

 鈍い衝撃と共に、神刀の先が武蔵の後頭部から突き出した。

 神刀の切っ先は武蔵の目を貫き脳を串刺しにしたのだ。

 花渡は神刀を引き抜くや否や、水平に振るった。

 

 武蔵の、首が飛ぶ。

 

 青黒い血が噴き出し、周りに降り注いだ。

 

 花渡は武蔵の肩を越え、背骨に沿って神刀を突き立てたまま、一気に走り下りた。

 

 巨体の武蔵が真っ二つになっていく。

 蜘蛛の尻から飛び降りた時、武蔵は消えつつあった。

 が、同時に、花渡の体も、吹き散らされたかのように、ふと消えたのである。