漆の肆 終わった戦いと秘密

 ほうっと、溜息をついたのは誰だったか。

 

 モノが完全に消え去ったのを、御霊士たちも花渡も見届けた。

 

 空気が変わる。気配が正常に戻る。

 

「終わったか。やれやれ」

 

 陣佐が池の淵から凍ったままの内部を覗き込みながら呟いた。

 

「やった! なーんだ、簡単じゃなーい」

 

 気楽そうにけろけろ笑う千春を、黒耀がこつんと小突いた。

 

「今の今まで簡単ではなかったんだよ……それにしても、鮮やかじゃないか。このデカさのモノを、こんなにあっさり仕留めるとは、その太刀もあんたの腕も、大したもんだ」

 

 青海は、花渡に優雅な歩みで近寄った。

 

「皆様のお陰で何とかなった。最初にあのデカさを見た時は流石に唖然としたが」

 

 花渡はいつもの癖で、神刀に付いたモノの残滓を払い飛ばした。

 

「あんた程の腕で謙遜は、ただの嫌味だよ。あれだけしぶとかったモノをあっさり散らすんだから、最初にあんたが言ったことは確かだったね。流石あの方が目を付けられるだけあるよねぇ」

 

 くすくすと、扇の陰で思わせぶりに青海が笑う。

 花渡はふと、御霊士と名乗るその者たちを見回した。

 

「しかし、私は貴殿らのお力の方が気になるな……貴殿らも、私と同じ、なのか?」

 

 目の前で見せられた力に、花渡は腹にずしりとくる驚きを感じていた。

 千春が自分と同じ、神をその身に宿した人間ということは分かっていたが、それと同じくらいに強力な力を振るう者が一気に三人に増えた。

 これはどう見ても、何者かがそうした人間を意図的に作り出しているとしか思えない。

 

「ううん、ねえ黒耀、どこまでこの人に話していいんだっけね? もういいんじゃないかい、粗方見せちまったんだ」

 

 青海が黒耀を振り向いた。

 どうやら、この黒耀なる聖《ひじり》が、この集団の取りまとめを一任されているのだと花渡は理解した。

 

「まだいかぬ。気持ちは分かるが、あの方のお許しがない」

 

 重々しく、黒耀は告げて池の水を指した。

 

「青海、池の水を元に」

 

「ああいけない、忘れてたよ」

 

 青海が手にした扇を一振りする。すると、微風が凍りついた池の表面を撫でた。

 すうっと何かの仕掛けのように、氷が消えてなくなり後には澄んだ水が残った。

 あれだけ濁っていた溜池は、以前以上の清らかさを取り戻していた。

 花の香が、その上を渡っていく。

 

「何だ。清めの花など必要でなかったな」

 

「いや、氷で傷んだだろうから、あの花付け足しとくれ。ここはお城のお堀と江戸中の水に繋がってるから、モノを追っ払う神気を乗せてくれたら言うことなしだよ」

 

「そうか? では」

 

 花渡は促されるまま、池の縁に手を触れた。

 澄んだ水の中に、今までの何倍かの花が咲き誇る。

 艶やかな匂いが、一帯を包んだ。

 

「陣佐、溜池守護の者らに、万が一の時のための見張りを残して引き上げるように伝えてくれ。そなたの方が顔の通りも良い」

 

 黒耀が燃える剣を携えた男に指示を飛ばした。

 

「貴殿らが何者かとは、いい加減訊いてはいかんのか?」

 

 どうにも好奇心をそそられて、花渡は座を外した陣佐以外の顔を順繰りに見た。

 

 今まで分かったことを総合するなら、神の魂と合一した人間が人為的に作り出されており、その者たちは御霊士なる役職として公儀に仕えている。

 そして今のような非常事態には、モノの脅威に対して駆り出されている。

 どうやら、一般的にそういう役職として知られる寺社奉行とは管轄が違うようだ。

 もっと上なのは、周囲の反応を見れば分かった。

 

「ここまでしていただき、まことに申し訳ないが、これにはご公儀も関わる故、まだ正式にお役をいただいておられぬ御前にはお話できぬ。しばし、こらえていただきたい」

 

 黒耀は静かに詫びた。

 感情を察しにくい見た目であるが、少しは申し訳なくも感じているように思える。

 

「では違うことを伺いたい。この事態の下手人の目星は付いているのか? 私の親の仇があちらに付いていたのだが……それがどうも妙だった」

 

「あっ! そうだそうだ、そうなんだよ、大変! 人間がモノになってたよ……あれの……あの呪法!!」

 

 黒耀と青海が鋭い目を見交わした。

 一瞬にして空気が変わったことに、花渡は軽く戸惑いを覚えた。

 この者たちには、あれが何か分かっているのだ。

 

「全く訳が分からぬ。教えてくれ。どういうことなのだ?」

 

 花渡は畳み掛けた。

 

「私が仲間でないから言えぬのか? 私が貴殿らの仲間に加われば、何が起こっているかも教えていただけるのか?」

 

 青海が口を開いた。

 

「あんた、佐々木小次郎の娘だってね? 親の仇ってからには、宮本武蔵だね?」

 

 優しげとすら言える声に、花渡はうなずいた。

 

「そうだ。モノと同じ血の色になっていたし、生身の体にも得物にも、何か細工をしているようだった……だが、あいつは生来のモノではない。奴には実の親がいたはずなのだ。モノに親はないだろう」

 

「お助けいただきながらこのようなことを申し上げるのは、まこと心苦しいが……宮本に何が起こったのか、大体の見当はつく。恐ろしいことの一端じゃ。じゃが、今ここでそれを御前にお話し申し上げる訳にはいかぬ。重大事すぎて、口にできぬのじゃ」

 

 黒耀の目に紛れもない恐怖を見て取り、花渡は口をつぐんだ。

 

「ふむ。事情もお話いただけぬのなら、私はどう振舞えば良いのだ?」

 

 花渡は殊更おどけた様子で口にした。

 

「今日のところは、一端お生家に戻っていただきたい。明日、城より使いを寄越す。恐らく我らが主より、直々にお話がある」

 

「千春が言っていた、私を召抱えるというお話か?」

 

 花渡はちらりと千春を見た。

 千春はどこか不安げに花渡を見返す。

 

「そう思っていただいて構わぬ。今は一人でも多くの味方がいる故。貴殿が千春とご覧になったあれやこれやも、その時ご説明できよう」

 

 黒耀の言葉に、花渡はうなずく。

 それ以外にない。

 

 陣佐が、溜池守護の侍たちに話を通して戻ってきた。

 

「お送りいたす。花渡神社の場所は伺っている」

 

 黒耀が花渡を手招きした。

 その反対側では、青海がひそひそと陣佐に何やら耳打ちしている。

 ぎょっとして、陣佐が顔を上げるのが見えた。

 

「生家の前に、着替えを取りに長屋に戻りたいのだが……」

 

 今更のように、花渡は自分の血塗れの全身を見下ろした。

 

「構わぬ。長屋は八丁堀でいらしたか」

 

「よくご存知でいらっしゃるな……」

 

 多分かなり前から見張られていたのだな、と花渡はぼんやり判断した。

 明日になったら城に行くのか。一番良い羽織を選ばなくては。

 それでも本来城に上がれるような姿ではないのだが、少しでもマシにしたかった。

 

 花渡は、黒耀と共に近くの木陰に入った。

 

「またね! お姉さん、明日ね!!」

 

 まるで遊びの打ち合わせをする子供同士のように、千春は手を振った。

 

 黒耀に手を取られ、花渡は影に沈んだ。