その手紙は、上品な真っ白い、未知の材質の紙にしたためられていた。
封筒には、四隅の部分に、金箔押しの、宝珠を抱く龍の典雅な紋様が象られている。
これが、新生ルゼロス王国の新しい国章だと、既にニレッティア女帝アンネリーゼは掴んでいる。
つまり――
その、ふわりと高雅な香りを漂わせるその封書は、ルゼロスの新国王オディラギアス・ネインジェル・バイドレルファーザンの親書に間違いないのだ。
……来ることを予想していなかった訳ではない。
ただ、まずい状況の時にやってきた。
ルゼロス王国に潜り込ませていたかなりの数のスパイと、連絡が取れなくなっていた。
そして、情報収集用に、王宮魔術師がルゼロス王国に送り込んでいた魔法生物の類も、ある時を境に全滅した――どんな呪い返しに出くわしたのか、送り込んでいた魔術師たちの中には、精神が崩壊し、精神病院に入院しなければいけないような者まで出たのだ。
当然、当初予定していた、オディラギアスをして傀儡に仕立て、崩壊寸前のルゼロスを何とか持ちこたえさせる、という計画は頓挫していた。
むしろ、ほんの一瞬で、事実上は傀儡にしていた王族主流派たちが一掃され、ニレッティアのルゼロスへの影響はほぼ無に帰していた。
それと引き換えのように、倒壊してニレッティアに多大な迷惑をかける可能性のあったルゼロス王国は、魔法王国メイダルの援助を取りつけるという大技を演じて立ち直った。
辛うじて商人などを通じて入って来る断片的情報では、メイダルの援助の元、次々と遺跡を無害化することに成功しているという。
残ったのは、豊饒な農地と豊かな山海の恵み、今までの地上種族の生活レベルでは考えられないくらいに快適な住居群。
それに加えて、メイダルからの惜しみない技術・軍事分野の援助だという。
ある港町では、海を越えて戻って来た商人が、空に浮かぶ鋼の船を見たと興奮して語っていた、という報告もある。
そんな時に、海を挟んだ隣国、ルゼロスの国王からの親書。
常識的に考えれば、隣国として、新王朝発足の通知と挨拶であろうと思われるが……何せ、今までが今までである。
そんな「穏当な」内容だけで、済む話であろうか。
言われてみれば、何だか微妙に封筒に厚みがあるような。
単なる挨拶では済まない内容であろうことが推察される、嫌な厚さ。
「アンネリーゼ様……」
その親書を、ルゼロス王国の使者から受け取り、アンネリーゼに取り次いだ侍女、シャイリーンは、死刑執行の命令書でも見るような目で見つめていた。
蝋で封をされたまま、ペーパーナイフと共にアンネリーゼの前に置かれた、その親書を。
昼下がりであるが、のんびりする時間がない、このアンネリーゼの執務室。
柔らかな日差しが凝り倒したレースのカーテン越しに射し込んでいる。
ふっさりした緋色の絨毯には、庭木とカーテンの、複雑な紋様が落ちている。
その奥、執務用の重厚なデスクに着いているアンネリーゼ。
そして、その前に控えているのが、アンネリーゼ付きの侍女兼護衛兼秘書であるのが、シャイリーンという女性。
アンネリーゼからすれば十歳ほど年下であるが、シャイリーンは紛れもなく、アンネリーゼの戦友だ。
単に主とお付きの侍女というだけではない、強固な絆で結ばれていた。
彼女の母がそうであったように、表沙汰にできないような政治的謀略の一端を担う役割を持ち、戦闘訓練を始め、交渉術やスパイ技術などの訓練も受けた侍女だ。
恐らく、かのオディラギアスと英雄たちだったら「忍者」とでも表現したことであろう。
彼女の普段なら吸い込まれるような青緑色の目は硬い光を浮かべ、亜麻色のまとめ髪に落ちる昼下がりの光はどこか憂鬱に見える。
「……シャイリーン。使者の方々はまだお帰りではないのであろう?」
「はい、アンネリーゼ様。陛下より尋ねたいことが幾つかあると申し上げましたところ、お返事を申し上げるまでの間の御滞在を承諾下さいました。ただ、その時……」
困惑気味のシャイリーンの目が瞬いた。
「……シャイリーン?」
「なにやら不思議な道具を使われまして。腕輪に話しかけると、それから声が返って来るのです。それに、腕輪に触れると、空中に不思議な模様のようなものが浮かび上がりまして」
何やらそれを見詰めるだけで操作されているご様子、一体、どういうものなのか、さっぱり分かりませんでした、との報告を聞いて、アンネリーゼは唸った。
「ただ、ルゼロス王国の方から滞在許可はいただけたご様子で。どうも、そのお返事が早いようでしたので、想定しておられた事態なのではと」
侍女のその言葉を聞いて、アンネリーゼは更に唸る。
「……使者のお二方は、龍震族と霊宝族であったのう?」
「はい。龍震族の方は、元オディラギアス様付きの武官の方。霊宝族の方は、メイダルからルゼロスに移住されて、王宮付きの文官になられた方だそうで」
しかし、どちらも同じような通信機器を持っておられました、と、シャイリーンは続ける。
「伝説では、霊宝族の機械は霊宝族の者しか使えないことになっておりますが、あのご様子を拝見するに、特にそうした制限というものは存在しないようですわね……」
アンネリーゼは、やはりか、という思いと同時に、それをわざわざ自分付きの侍女に見せたルゼロス王国、つまりはオディラギアスの計略も思慮に入れざるを得ない。
かつては文明水準という点で、ニレッティア帝国の後塵を拝していたはずのルゼロス王国は、魔法王国メイダルとの結びつきにより、あっさりニレッティアを抜き去った。
巨大な鉄の飛行軍艦。
そして地上種族では原理不明の通信機械。
かの使者だって、飛行軍艦ほど巨大でないにせよ、優美な形の不思議な金属製の飛空船でもって、このニレッティアに降り立ったのだ。
何より……
遺跡の無害化という大偉業。
これは珍しいことに、アンネリーゼの不覚だ。
メイダルから降り来たった霊宝族の要人、レルシェントと有効な関係性を築けぬうちに、むざむざ取り逃がした不覚。
そして恐らくは、かなりその心証を悪くさせた上で逃がしてしまった。
あの鉄鎖に繋がれた高貴な巫女姫の痛ましい姿は、アンネリーゼにしても忘れがたい。
ミーカルに、もっときつく言い渡し、くれぐれも心証を悪化させるようなことは許さないと厳命すべきだったのだ。
油断して彼の自由裁量を多くしすぎたのは、アンネリーゼの判断ミスだ。
いささかやりすぎる傾向のある人物であると、はっきり分かっていたはずなのに。
宗教を重んじる霊宝族国家の宗教的権威のある女性を冒涜したとなれば、話は単なる無礼に留まらない。
重大な外交的問題に発展する可能性がある。
メイダルと国交も樹立していないうちから、火種をこしらえてしまった。
「……さて。スタートから厳しいのう?」
しかし。
不世出と言われる女帝は、笑っていた。
挑戦的に。
「じゃが、それでこそひっくり返し甲斐があるであろう? さて、あちらの手札を見せていただこうかの?」
女帝は白い大理石のような手を翻し、その親書の封を切った。
戦いの鐘は、鳴った。