「つまり、お前はその娘に惚れている、というのだな?」
紫王の父、六臂の阿修羅は、あっさりそう突きつけた。
紫王の顔に羞恥と無遠慮さへの怒りの朱が昇る。
「愚かな。幼稚な一時の情熱などで、こういったことは決められるものではない。よしんば妖怪として蘇生させたとして、人間から妖怪になった本人はどうなるか考えているのか!? まるで違う生き物として生きろというのだぞ!?」
真面目な者であればあるほど、自分を受け入れられずにどうにかなってしまうぞ? と畳みかけられ、紫王は唇を噛んだ。
「お恐れながら、陀牟羅婆那《ダムラバナ》様、天椿姫様」
筋骨隆々の野人めいた巨漢、蓮沼清美《はすぬまきよみ》が、丁寧に膝を折って礼を取った。麻の上下を着込んでいるが、それでも隠せないほどの野性味にあふれた男だ。
「紫王様は、すでに子供というほど幼くはいらっしゃいません。それに加え、このお嬢様を妖怪仲間に引き入れるのが、それほど不都合でありましょうか? 以前にも、何度かあったことではありますまいか?」
その言葉を聞いて、案じるような溜息を落としたのは、紫王の母・天椿姫だ。
「承知しておる。何度も呪法を行ったのは、確かにわらわじゃ。しかるに……」
天椿姫は痛ましい視線を倒れ伏す瑠璃に向けた。
「それは、大部分本人に覚悟があってのこと故。それに、昔は妖怪変化の類は、当たり前のように実在するという前提で、世の中が出来上がっておった。妖怪に転身する本人も、納得が早かった。周り中がそう思っていることに、誰もが引きずられるもの。しかし、この娘の場合は違うぞえ、紫王」
天椿姫と紫王の視線がまっこうからぶつかり合う。
「今の世の中は、妖怪が存在する前提で出来上がってはおらぬのじゃ。居場所がない、とこの娘が感じるようになってしまうかも知れぬ。それにな、急に妖怪になどなったら、それなりの物事を身に着けなくては生きていくのに不都合。妖怪としてのこの娘を、丸ごと引き受けてくれる誰かが必要じゃ。立場というものも、与えてやらねばならん」
懇々と諭す母に、紫王の金色の視線が突き刺さった。
「……なら、俺がこいつを丸ごと引き受ける」
紫王は力を込めて断言した。
「こいつは、俺の、嫁にする!!」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
仁が、清美が、そして天椿姫に加え陀牟羅婆那が目を見開いた。
「ちょ……紫王!? マジ!?」
仁が素っ頓狂な声を上げる。
「マジに決まってんだろ。こんな状況で、冗談なんか言えるか!!」
吼えるように、紫王が叫ぶ。
「お前は正気か!? お前が嫁をもらうだと!?」
流石に呆気に取られたような声は陀牟羅婆那だ。
「うるせーよ。もう決めたんだよ」
紫王は憎々し気に唸る。
「お袋、早くしてくれ!! もう、細かいあれこれは後でどうにか辻褄合わせりゃいいだろ!!! 久慈が死んじまう!!!」
掴みかからんばかりの息子に、真剣以外の色を感じ取れない天椿姫は、一瞬目を閉じ、次いできっぱりうなずいた。
「……お前が、そうまで申すなら」
天椿姫は、瑠璃の傍にすいと歩み寄った。
「おい……」
流石に陀牟羅婆那が止めようとしたが、紫王に「邪魔するな!!」と怒鳴られる。
華麗な天椿姫が、手折られた花のような美しさの瑠璃の傍らに立つ。
「荒魂《あらみたま》、和魂《にぎみたま》、奇魂《くしみたま》、幸魂《さちみたま》を震わせ給いて」
瑠璃の全身に、あでやかな虹色の光が走り、包み込む。ふわりとその体が宙に浮き、いけにえに捧げられた娘のように仰向けに浮かぶ。緩やかに巻いた優雅な長い髪が垂れた。
「天地《あまつち》、常盤の波に申して送らん、あやしの色、御魂《みたま》に咲き給いて申さく」
まるで宙に浮いた瑠璃の体の中から湧き上がるように、虹色のあでやかな光は滔々とこぼれ、瑠璃の体を覆った。瑠璃自身の肉体の厚みに大分勝る光が、彼女の全身を包み込む。
「……この者、久慈瑠璃、あやしと昇らん!!!」
光がぶわりと広がった。
瑠璃の全身に入り込むように変じ、何か器官が生じていくようだった。
背中に光る虹色の何かが広がり、腰の後ろから何かが伸びた。
激しい明滅の後、そこに垂直に立っていたのは。
「久慈……?」
紫王は息を呑んだ。
瑠璃の姿は今までの花の色を隠した乙女とは、全く違っていた。
まず目立つのは、背中に異国の花のように広がった、鮮やかな虫の翅だった。黄金の流れのような翅脈の間に、移り変わる赤虹色の翅が広がっている。それは二対存在した。
同時に、豊かな腰の後ろからは、マジョーラカラーとも言うべき、目にもあやな光沢をたたえる、蠍の尾のようなものが長く伸びていた。先端には肉厚の刃物のような針がゆらゆらと揺れている。
手足の先が構築的で華麗な甲殻に覆われているのが珍しい。髪は尾や手足と同じ虹色の艶麗な巻き毛だった。額から、優美なS字曲線を描く黄金の角が、王冠のように頭部を彩っている。
豊満美麗な肉体を覆っているのは、特殊部隊服をセクシーにアレンジしたような、きわどい衣装だ。
「……神虫《しんちゅう》か」
陀牟羅婆那がほう、と声を上げた。
「……何だよ、神虫って?」
紫王は怪訝な顔をする。
「極め付けに珍しく、そして強力な妖怪じゃな。朝《あした》に三千、夕べに三百の鬼を食らうというほど、強力な辟邪《へきじゃ》の妖怪じゃ。この娘の魂、よもやこのような存在に転生するほど、高貴なものであったとは」
夫の代わりに答えたのは、天椿姫だった。
この「妖魔転生法」は、対象の人間の魂を、その魂の格や波長に見合った妖怪に転生させるというもの。
内面的に貧しければつまらない、格の低い妖怪になるし、内面が豊かで高貴なら、神に匹敵するような格の高い妖怪になる。
久慈瑠璃の場合は。
「神虫……名前は聞いたことがあったが……実在するとは」
唸ったのは、清美。冷や汗が流れているのは、暑いからでは確実にない。
「……それって、確か世界に一匹しかいねえとかって……」
仁は怪訝な顔を陀牟羅婆那と天椿姫に向けた。
「いや。確かにそう勘違いされてもおかしくないほど珍しくはあるが、必ずしもそうではない」
陀牟羅婆那はあっさりそう応じた。
「あまりに強力であるし、本人たちも超然として世の栄華のことなどに興味がない故、そのように受け取られている。私も出くわしたことは今まで二度ほどしかない。三度目が、この娘だ」
陀牟羅婆那の視線にも気付かぬように、空中に垂直に立った姿勢で、瑠璃は眠り続ける。
「……かっこいい種族じゃん。気に入った。ありがとうな、お袋」
紫王が、瑠璃の下で手を差し伸べる。
その腕の中にゆっくりと、瑠璃が降りてきて収まった。
「たった今死にかけたし、少し休ませた方がいいな。お袋、部屋、貸してやっていいだろ?」
上機嫌で、紫王はそんな風に問いかけ。
腕の中の許嫁に、優しい目を投げかけたのだった。