その8 姿を見せた敵

「な、なに!? なんなの!?」

 空中でジタバタもがいている「見えざる人影」を目の当たりにして、瑠璃は悲鳴を上げた。清美が恐ろしい口から発射した粘着質の糸は、見えないはずの「それ」に雁字搦めに絡みつき、大まかな姿を浮かび上がらせている。

 紫王は、手で瑠璃をそっと押し、背後に庇った。

「瑠璃、俺の後ろにいろ。――仁!!」

 叫ぶと同時に、化け狼姿の仁が一声吼えて空中に躍り上がった。そこに坂でもあるかのように宙を踏んで、暴れる人影に突っ込むや、その喉笛あたりに噛みつき、そのまま屋上に引きずり降ろしてきた。

 

「なに……なにがいるの、見えない……」

 瑠璃が青ざめている。

 無理もない。こんなの、初めての経験であろう。

 紫王にしたって、慣れている訳ではない。陀牟羅婆那と天椿姫の一子たる自分に、こんな露骨に接触してくる「使い魔」なぞ。

 

 仁に噛み伏せられたその「見えない人影」は、水のようにきらきら光る糸に絡め取られたまま、屋上の床に転がりもがいていた。仁に噛まれた首から出血しているのか、ざらついたコンクリートに点々と血痕だけが滴《したた》っている。

 絡みついた糸の範囲と形から推察するに、大きさは人間の子供くらいで、大まかな外見もそんなものだろう。見えない口から、キィキィと耳障りな声を上げている。

 

「瑠璃。驚かせて悪い。だが、説明してたらややこしいことになりそうだったんでな」

 紫王が瑠璃を振り向くと、彼女はきょとんとした顔で恋人を見返した。

「……どういうこと? 紫王、これが何か知ってるの?」

「ああ。|妖術使《ようじゅつつか》いの使う、『妖怪もどき』だ」

 紫王は厳しい顔で、足元に転がった「それ」を見やる。

「妖術使い……妖怪もどき?」

 瑠璃は何かを考え込む表情をした。

「妖術使いっていうと……滝夜叉姫《たきやしゃひめ》とか、果心居士《かしんこじ》とか……?」

 怪しいものオタクな雑学を口にする瑠璃に、紫王はうなずいて見せた。

「有名どこだと、そんな感じだ。そういう奴らの中には、妖怪を手下にする奴とかいたろう。こいつは、その『妖術使いの手下』だ」

 瑠璃が目を見開く。

 

「瑠璃ちゃん、ほら、陰陽師で有名な、安倍晴明《あべのせいめい》なんていうのがいただろう? 聞いたことくらいあるだろ、有名だから」

 清美が補足説明を始める。

「映画か漫画で見たことないかな。紙で作った形代《かたしろ》に術を込めて、人工的な妖怪みたいなのを作る術。紫王様が仰ってるのは、そういう『妖術使いが使役する人工的な妖怪』のことだよ」

「……式鬼《しき》……?」

 瑠璃は目を瞬かせる。

「そう。その式鬼だよ」

 清美はまだじたばたしているその「見えない式鬼」をじろりと睨んだ。

 

「何かさぁ。ちょっとこのところ、この辺りが『臭かった』んだよなぁ」

 仁がだらりと舌を垂れ下がらせたまま、そう口にした。彼にしても、口腔の構造で、声が変わることは何故かない。

「俺、おかしなことがあると匂いでそれを感じるんだ。こっちに敵意や害意を持って近付いてくる奴って、凄く『臭《にお》う』訳。で、最近、この辺り一帯が何か『臭《くさ》かった』んだよ」

「……害意を持ってる何かが、みんなの周りに潜んでた……?」

 瑠璃のその問いにうなずいたのは、紫王だった。

 

「俺らだけじゃない。お前の周囲にもだ、瑠璃。それどころか、こういう奴らの行動を追跡していると、どうも目的は……お前なんじゃないかと思えた」

 

 じっと見据える紫王の目を見ながら、瑠璃はますます青ざめる。

「え……なんで、妖術使いの人が私を見張るの? 何の目的で?」

 瑠璃はいい加減弱ってきた見えない式鬼と、紫王との間に視線をさまよわせた。

 瑠璃からすれば、本当に分からないだろうな、と紫王は思う。

 恐らく瑠璃の認識は、「自分は、紫王と違って妖怪の中のVIPではない」「ついこの前まで、普通の人間だった」だ。

 確かに、紫王と婚約はしているが、それで珍しがられるなら、注目が集まっているのは紫王の方ということになろうというもの。

 

 何より――「妖術使い」などというものは、瑠璃にとっては妖怪以上に、存在の疑わしいものであろう。

 妖怪が、人間より強く、場合によっては知恵も勝る種族だというのは、瑠璃の性格なら抵抗なく受け入れられる話であろう。この世界に、人間以外の高貴な生き物がいることが、瑠璃にとっては嬉しいことらしかったというのは、紫王にも飲み込めたことだった。

 だが、人間でありながら、あやしの術を使う「妖術使い」というものは、瑠璃のようなタイプだからこそピンと来ないかも知れない。

 人間は、別の形に変身しない。

 空を飛ばない。

 糸を吐かない。

 神々と真っ向勝負できるほどの戦闘能力を持っていない。

 だが、「妖術使い」は、修行なり、何かの偶然や恩寵なりで人間の限界を超える。妖怪に匹敵する力を、後天的に身につけるのだ。

 しかし、瑠璃が見たことがある「異能を使えるということになっている人間」とは、せいぜい夏の怪奇特番で顔を見せる、いかがわしい霊能者くらいであろう。

 紫王も人間の皮をかぶって生活しているために実感できるが、ああいう嘘くさいものを露骨に見せられると、むしろ「人間には伝奇小説や映画みたいな真似はできないんだな」という確信が募るばかりである。瑠璃のようなタイプだからこそ、余計にそうであろう。

 

 しかし。

 紫王の知る「妖術使い」は、インチキ霊能者ほど甘くないのだ。

 

「お袋に聞いたが……こういうことをしてきそうな妖術使いに、心当たりがあるそうだ」

 紫王の言葉に、瑠璃はぎょっとして彼を見上げた。

「それは……」

「瑠璃。ちょっと、力を貸してくれ」

 急に紫王に言われて、瑠璃は長いまつ毛を瞬かせる。自分の力をまだ自覚していない彼女には、思いがけない申し出でもあったろうか。

「瑠璃は、神虫だ。姿そのものが魔除けになるほど、神聖な存在だ」

「う、うん……」

 瑠璃は困惑していた。ごく普通の人間だった自分がそこまで神聖な存在になってしまっているのが、まだどこか信じられないのであろう。

「この式鬼の透明化の術を、瑠璃なら破れるはずだ。破ってみてくれ」

「ほへっ!?」

 あえて大胆な言い渡しをした紫王に、瑠璃は目を白黒させた。

「や、破ってみてくれって……」

「瑠璃なら、そう難しくねえはずだ。このバケモノの姿を隠してるものを取り除こうって、強く意識してみてくれ。包装紙をひっぺがすイメージだ。すぐに効果が出るはずだ」

 信頼を込めて、紫王は口にした。瑠璃の、初めての妖力行使の実践としては、悪くない課題であるはず。

「う、うん……やってみる」

 瑠璃は、意識を集中させるべく、目をすがめた。

 

 途端に、バシン!! と、何かが爆ぜ割れるような音が響いた。

 

「きゃ……!!」

 それを行った瑠璃が一番ぎょっとしていた。

 そこに現れたのは、きらきら光る水の糸に絡め取られた、子供くらいの大きさの奇怪な生き物だったのだ。

 全体的なシルエットが人間に似ているというだけで、子細に見るならそれは、人間と似ても似つかない。

 全身が短く赤黒いビロードのような毛に覆われている中、顔は剥き出しだ。ある種の獣のように、鼻面が隆起した形だが、具体的にどんな獣かと問われると答えに詰まる。犬にも猿にも、イタチにも似ているが、それのどれとも明らかに違う。

 背中には蝙蝠のそれに似た翼が生えているが、単なる被膜ではなく、細かい毛のびっしり生えた奇妙なものだった。

 手足は原猿類に似て、毛むくじゃらなのに長い指にだけ毛がない。

 

「これは……!!」

 清美がぎょろりとした鬼の目を見開いた。

「何だよ、清美ちゃんは見たことあるやつなのか?」

 仁が怪訝そうにその式鬼の匂いを嗅ぎ。

 

「くさっ!! 臭ぇな、こいつ!!!」

 

 吐き気を催しそうな声を張り上げた。仁が「臭い」というからには、それは単なる悪臭ではない。悪意の、害意の、他者を苦しめんとする意思の放つ腐敗臭なのだ。このかりそめの生き物は、そうしたもので作られていることになる。

 

「仁。どんな臭《にお》いだ?」

 紫王が尋ねた。

「なんつーか……人間の死骸の臭《にお》いに混じって、薬品臭みてーな。オェッてなる化学薬品てあるだろ。化学準備室にあるようなやつ。あんな感じ」

 その言葉を聞いて、清美が重い溜息を落とした。

 

「……間違いない。霊泉居士《れいせんこじ》だ」

 

 霊泉居士。

 その響きを聞いて、紫王はぎっと目の光を強めた。

「霊泉居士……それが、妖術使いの人の名前……?」

 今生きてる人なんですか? ずいぶん時代がかった名前だけど……と困惑気味に問う瑠璃に、清美は再度溜息を落とす。

「今もそういう名前を使っているかは分からないが、俺の知っている奴だ。いや、厄介な奴が……」

「俺や仁はまだ出くわしたことがねえが、お袋やクソオヤジは何回も戦っているはずだ。くっそウゼェ奴らしくてな……」

「……何回も?」

 瑠璃はその言葉に不審の念を抱いたようだった。

 この国の妖怪の中でも、紫王の両親は頂点に限りなく近いところにいる。その彼らが何回も戦った。そして、今、こうして出てきている、ということは、何度戦っても倒せなかったということだ。どんな強さなのだろうと思うのは、人情であろう。

 

「奴はな、倒せねえんだとよ」

 紫王が、あらかじめ両親から聞かされたその話をすると、瑠璃は目を見開いた。

「えっ……」

「正確に言うと、倒せねえっていうより、倒しても何回も蘇ってくる……んだとさ」

 唖然とする瑠璃を下がらせて、紫王は式鬼を覗き込んだ。

 まるで紫王を敵と認識したかのように、式鬼がくわっと細かい歯の生えた口を開いた。

 

「よう、霊泉居士さんとやら。聞こえてるんだろ? 多分知ってると思うが、俺はてめえと戦った、陀牟羅婆那と天椿姫の息子だよ」

 式の口から、切り裂くようなシャァッという威嚇が洩れる。

「てめえ、俺の女になんか用なのか? やめとけ、てめえ、貧相なジジイだって話じゃねーか。相手にされるかよヘボ。どうしてもってんなら、タイマンでケリつけるか? 悪いが俺はクソオヤジほど甘くねーぜ? てめえの命運もここまでだな。で、どこだ、今?」

 挑発と嘲弄を重ねると、式鬼の口が、更にくわっと開いた。

 

 ごっ!! と音を立てて吐き出された火の玉に瑠璃たちが気付いた時には、すでに終わっていた。

 光の帳を纏う紫王の拳が、式鬼に向かい振り下ろされた。

 どろりと形容したくなる炎の塊を、紫の光の拳が真正面から打ち砕く。

 竜巻に巻き込まれたように飛び散った炎を縫って、紫王の拳がなだれ落ち、式鬼の頭を粉砕した。

 爆薬でも仕掛けられていたように、肉片がまき散らされる。

 コンクリートの床にひびが入り、建物が揺れ動いた。

 阿修羅の一撃。

 後に残ったのは。

 

「……人形?」

 

 それはいわゆる人形《ひとがた》、和紙を人間の形に切り抜いたものだった。

 複雑な紋様が描かれているが、よく占術系の書籍で見かける、陰陽道のものとはどこか違っているように見えた。

 

「こいつをお袋のとこに持っていけば、結構なことが分かるはずだ」

 紫王はひょいとその人形《ひとがた》をつまみ上げた。

「流石に、陀牟羅婆那様と天椿姫様のお子……凄まじい妖威の拳だな」

 人間だったら冷や汗をかきそうな調子で、清美が呻く。

「大丈夫。匂い覚えたぜ、紫王。いつでも追跡できる」

 笑うように舌を垂れ下げさせながら、仁が宣言した。

 

「紫王……」

 瑠璃の瞳が揺れている。

 自分がまさに、訳の分からない不気味な敵に付け狙われていることが実感できたのだろう。だが、その怯えの色に勝るのは、始めて本格的に目にした、紫王の妖力への畏怖だった。

「瑠璃、怖がらなくていい」

 紫王は、殊更不敵に笑った。

「今のは、ほんの挨拶代わりだぜ? 俺の力はこんなもんじゃねえ。だから、安心しろ。絶対に、お前は俺が守る」

 ぎゅっと抱き寄せると、瑠璃はすがりついて安堵の吐息を漏らした。