中屋敷翠子《なかやしきすいこ》は、正直、「飲み会」なるものが好きではない。
今日も断ろうとしたのだが、どうしてもという先輩に捕まってしまったのが運の尽き。
翻訳業務を外部企業から委託される性質の会社であり、海外の文化には一般より多少近いような気もするのだが、だからと言って日本的因習から完全に自由ではないらしい。
特に、強引に翠子を誘った先輩というのが、うんざりさせられる単細胞で、一人でのんびり楽しむということを頭から理解しない、鬱陶しい集団主義者である。
かくして、翠子は会社の入っているビルから、不機嫌な顔を隠しながら、連行されるように、表へと出る。
翠子のバレッタで留めた、やや茶味がかった長い髪が、連休を控えた柔らかい春の夜風になぶられる。
そう華やかではないが、柔らかく甘美といえる翠子の黄色縁の眼鏡をかけたかんばせを、街灯の光の環が照らし出す。
逃げたいなあ、と翠子はそっとため息。
まあ、仕事用のタイトスカートのスーツとパンプスでは、走って逃げるに逃げられないだろうが。
別に嫌いというほどではないが、ひとときも離れていたくないというほどに熱烈な愛情を抱いているわけでもない相手に、おべっか使いながら、楽しいフリを二時間くらいは演じ続けなければならないのか。
「さあて、行くぞ行くぞ!!」
予約はしてある!! と得意げな先輩が、十人あまりの集団を率いて歩み出した時。
ずずん、と地響き。
急ブレーキの音、背後で大音声が轟く。
爆発音とオレンジ色の炎が上がったのと、翠子が振り返るのは同時。
「なによあれ!!」
翠子と同じく、強引に飲み会に連れ出されていた同僚の一人が悲鳴を上げる。
いつもの見慣れた会社の前の路地、四つ辻には、見慣れぬ巨大な影。
燃え上がっているのは、白いバンだという以外に見分けはつかぬ。
そのくらい、火勢は激しい。
その毒々しい火明かりに照らされて伸びあがる巨躯は、一瞬、一般的な人間の理性を吹きとばす威力を持っている。
まるである種の砂虫のように、頭頂にあたる部分に、巨大な口がある、長い胴体。
その幅だけでも、二車線を覆って余るほど。
汚れたゴム筒のような太く丸いその胴体の両脇から、曲がりくねった筋肉質の腕なのか脚なのかよくわからないものが、ムカデのように生えて、空中を掻いている。
びゅるん!! と伸びた首が、先端の口で何かを捉えた。
それが倒れた人間であると、戦慄と共に、翠子は気付く。
肉食昆虫が更に小さい虫を貪るように、折れ曲がる歯列で抑え込みながら、そのまま呑み込む様子が、くっきり、見える。
見えてしまった。
「あああああああああああ!!」
一瞬、誰かが発声練習しようとしているのかと、翠子は勘違いする。
それが、自分を強引に連れ出した威勢のいい先輩で、彼が後輩同僚に見向きもせず、悲鳴の尾を引きながら、弾丸のように逃げ去るのを、翠子は呆気に取られて見送るしかない。
もちろん、パニックになったのは、その先輩だけではない。
あまりに現実離れした光景に、一瞬だけ呆然としていた同僚たちが、我に返って逃げ出し始める。
ひきつった悲鳴、革靴の底がコンクリートを蹴る音。
だが、翠子はあまりのことにぽかんとしていた。
逃げ遅れた。
誰かが逃げる時に突き飛ばされ、角度が悪かったのか、横ざまに派手に転倒する。
起き上がろうと上体を起こした時に見た者は、あの異様な怪物が、両脇の手足をうごめかせて、思いがけぬ素早さで突進してくるところで……
轟音。
死骸の破片だの体液だのにまみれた巨大な怪物の頭の、肉の一部が吹き飛ぶ。
まるで小型のミサイルでも着弾したかのようだ。
「この下郎めが。これ以上好きにはさせんぞ!!」
凛とした涼やかな声が響く。
若い女の声だ。
やけに居丈高な有無を言わせぬ響きだが、涼風に吹かれた気分になる、不思議な快さがある。
起き上がりながら見回しても、車道の幅いっぱいに広がる、化け物の異様な姿以外に何も見えぬ。
車が何台も転倒し、燃えている車はそのまま炎を噴き上げているが、人間はすでに逃げ去ったか食われたか。
迷惑な先輩と同僚は、とっくの昔に逃げ去っている。
今の声は誰だ。
翠子は、そののたうち回り、拍子に周囲のビルの外壁を壊して回る怪物を視界の端に捉えながら、きょろきょろと。
「そこな小娘。さっさと逃げろ。足手まといだ」
居丈高だが涼し気で快い声が、頭上から。
ぎくりとして頭上を見上げ――翠子は、息を呑む。
空中に、女が浮かんでいる。
街灯よりも、高い空中に。
ただの女ではない。
背中に、目に染み入るような真紅の、大きな翼が生えている。
翼の付け根の間辺りから、鳳凰を思わせる、身の丈の数倍はありそうな真紅の飾り羽が、悠々となびいている。
能衣装のような華やかな和装で、流れる長い髪もまた、人間にはあり得ぬ真紅。
これはなんだ。
どう考えても危機的状況であるのに、思わず翠子はその赤い翼の女の美しさに見とれてしまう。
空に咲く大輪の花のように、妖しく華麗に輝かしく、その美しき異形は、存在を主張し続け。
汚らしい血なのかなんなのか、体液をこぼしながら、巨大な怪物がどうにか体勢を立て直す。
同時に、真紅の翼の女が、右手に持っていた金箔張りの華麗な扇を舞の型のように構える。
それが、軽く打ち振られただけのように見え――同時に、雷のような大音声が、翠子の耳をつんざく。
凄まじい、衝撃波を翼の女が発生させたのだと、気付いた時には、怪物の分厚い肉が、人間数人分以上は吹き飛んでいる。
巻き添えで、周囲のビルのガラスが粉々になり、煌めく雨のように降り注ぐ。
さながらミサイル攻撃である。
「おい、今のうちにさっさと……」
翼の女が翠子を振り向く。
目の光が強く驕慢そうだが、顔立ち自体は華やかで愛らしい。
が。
「ああら、あなた、天狗さん? こんなに高位の方は、滅多にお見かけしないわねえ」
妙に、鼻にかかった色っぽい声と共に、春の宵の薄闇の中に、女が浮かび上がってくる。
天狗と呼ばれた、真紅の女は、思わず目を見開く。
もう一人の女も、異形である。
鬼火のような妖美な碧に燃える、コウモリの翼。
曲がりくねった、黄金の螺旋角が、異界の王位のように。
クリーム色に近い滑らかな金髪の巻き毛は女性性そのもの。
水色の肌に黄金の文様が背徳的であでやか。
切れ長の垂れ目が特徴的な美貌は、誘惑に弱い何者かを破滅させるためにあるかのよう。
豊満な肢体を、際どいレオタードのような衣装に包み。
とどめは、その額の中央に輝く、ネオンブルーの宝玉である。
異形であらばこそ、発狂しそうな色香を漂わせる、人外の女がそこに。
天狗と呼ばれた真紅の女が、碧の女を見る。
ちらりと見やった眼下に、いたはずの、あの逃げ遅れた大人しそうな女はいない。
「……ヴィーヴルか。人間の皮を被っていたか」
「そういうことよ、かわいこちゃん。お姉さんが手伝ってあげるから、あの汚いの片付けちゃいましょ」
うふふと笑ったヴィーヴルから視線を外し、天狗の女は、巨大な怪物に向き直る。
「あのデカさはことだ。動けないようにできるか」
彼女の視線の先に、周囲の建造物や排気された車をなぎ倒しながら、暴れまわる怪物が。
叩き潰された拍子に、乗用車が炎を上げる。
「あら、得意だわ。喜ばせようとしてくれてるのかしら、小鳥ちゃん?」
うふふと笑って、優雅な人差し指を、ヴィーヴルは巨大な怪物に突き付け。
まるで歯車がかみ合わなくなたように、怪物が、がくり、と動きを止める。