巨大な鎌のような、前脚が振るわれる。
それがどれほどの威力を秘めているのか、十二分に認識しながら、闇路はそれを避ける。
ただの骨ではない恐ろしい切れ味は、外れて振り抜い鎌が、高層ビルを両断するほど。
さながら馬鹿でかい達磨落としのように、一瞬ぐらつき、直後盛大に倒壊する。
近隣のビルが巻き込まれ、轟音と土煙が上がる。
ラメのようにきらきら光りながら硝子が飛び散り、眼下に死の雨を降らす。
もっとも、視認できるような範囲に、生きた人間はいないだろうが。
変わり果てた涼の目前をひらひら飛び回り、その場所から動けなくしながら、闇路は頭の隅で考える。
そもそも、何故涼は恒果羅刹のターゲットになどなったのだろう?
もっと古く、もっと業を背負い、もっと他人から恨みを買っていそうな人外など沢山いる。
例えば、自分。
同じくらいに年降り、同じくらいに身辺に気を付けた方がいい日本産吸血鬼も何人か知っている。
彼らではなく自分でもなく、なぜ涼だったのか?
涼は、吸血鬼としては若い。
わずか二百歳を超えたくらい。
親の自分と違い、人間であった時からの因縁を含めても、背負った業など大したことはない。
好むと好まざるとに関わらず、誰かの血で手を染めねばならぬ事態に陥ったことなど、さて吸血鬼の平均の何分の一か。
元々の涼の気楽な性格、そして、なんといっても日本産吸血鬼の中でも屈指の実力者である自分の庇護もあったからである。
涼が恒果羅刹のような「人外の闇」を煮詰めたような存在と接点を持つなど、およそ考えられない。
そんなやるせない、納得いかない父の想いなど、もはや涼には察することもできそうにない。
涼が、骨の顎をくわっと開く。
黒く輝く光とも言うべき何かが、広範囲にまき散らされて、闇路をも巻き込む。
空中で濁流に巻き込まれたかのような闇路であるが、次の瞬間、清冽な黒が、濁流を振り払う。
空中には、太刀を振り抜いた闇路の姿がある。
涼は、納得いかないように、耳障りな吼え声を上げる。
「涼。お父さんが教えたでしょう。我ら日本産の吸血鬼は、同類同士争うようにはできていない。戦う力は、他の生き物を制圧するためだと。いくらやっても無駄ですよ」
低く唸り続ける涼に、闇路は何とも言えない重苦しい感情がこみ上げる。
今のところ、涼は人間や人外に通じる言葉を発していない。
言葉を話さないのか、話せないのか。
前者の可能性はかなり低い。
涼は、本来おしゃべりだ。
この姿を解放するようなことがあり、なおかつ自由に話せる状況にあったら、自分を覚えているかどうかに関わらず、あれこれべらべら話すはずだ。
自分の記憶をいじられていたことも含め、恒果羅刹に、精神を支配するような術をかけられていると見るべきだろう。
涼は、今この瞬間、恒果羅刹の傀儡にされている――
「……さて、お嬢さんたちに期待しましょうか。恒果羅刹をなるべく無残に切り刻んでいただくことを」
できれば、とどめの一太刀は、私に残しておいてほしいですね?
物騒なことを口にする闇路の前で、涼の胴体から、黒い火の玉のようなものが射出される。
まるで各々が意思を持っているかのように、それは闇路を取り囲んだ。
◇ ◆ ◇
「……どうだ。何か感じるか?」
決戦の場から少し離れた場所で。
アマネは、並んで宙に浮いているエヴリーヌに話しかける。
やることは二つ。
恐らく、間違いなく近くに潜んでいるはずの、恒果羅刹を見つけ出す。
そして、奴から「マリー=アンジュ」を取り上げる。
もちろんその後に粉々にする予定ではあるが、「マリー=アンジュ」さえ奪えば、それはついでというのも愚かしい蛇足になるはずだ。
「……感じるわ。おばあちゃんの気配を感じる。わかるわよ、あたしの中にもある魔力だもの」
いつも気だるそうなエヴリーヌが、珍しく高揚を示す。
「……でも、邪魔されているのも感じる。なんとか見つからないように、そのインチキ魔法使いさんも必死なんじゃないかしら」
「恐らく、涼に魔力供給を続けるのだったら、閉鎖空間に閉じこもるという訳にはいかんのだろうな。どこかに穴があって、そこに蟹みたいに隠れているはずだ」
具体的にどんな状態で隠れているのかはともかく、涼を自由にしないためにはここと繋がった場所で、魔力供給を継続しなければならない。
恐らく、奴にとっても、始めてしまった以上やめる訳にはいかないはずだ、とアマネは推測する。
「マリー=アンジュ」と涼の間の魔力を切断するということは、世界を破壊するために放った獣が、恒果羅刹自身に襲い掛かってくることを意味するのだから。
「さて、それがしをお探しかの?」
いきなり妙に耳に付く、そのくせ低い声で話しかけられ、アマネもエヴリーヌもぎくりとする。
反射的に振り返った彼女たちの前に、どう見てもかなり大柄な男性の肉体に、ゆったりとした被衣《かずき》を纏う人影が、悠然と浮かんでいた。
アマネとエヴリーヌが戦闘態勢に入るその前で、被衣の男がげらげら笑い始める。
みるみるうちに、その姿が、三人、五人と増えていくのだった。