4-1 一縷の希望

「涼……」

 

 コンクリートのがれきと、きらきら光る破砕されたガラスが彩る路上。

 その中に、それはわびしく残されている。

 てのひらに収まるほどの、厚めの真っ赤なガラスでできた壺は、何か彫り込まれた鋼線のようなもので、厳重に封じてある。

 

 それをがれきの中から拾い上げ、闇路は絶望と哀しみに顔を歪める。

 その奇妙なものが何なのか、彼にはわかる。

 わかってしまう。

 恐ろしく積み重なった人生経験と知識が、それが何かを教えるのだ。

 妖術使いが、生き物の霊魂を封じ込めるのに使う種類の、魔術的な壺。

 あの、怪物と成り果てていた涼が消えた後に残されていた、それは間違いなく。

 

「涼は……いなくなっていない……だけど……魂だけがあっても……仕方ないじゃありませんか。これじゃ一緒に、ご飯も食べられませんよ……」

 

 虚ろに、途方に暮れたように、闇路は「涼の魂が封じられた壺」を胸に抱きしめる。

 戦い終えて、破壊されつくした地上に降りた三人を待っていた現実だ。

 闇路から少し離れた路上で、なんとも苦々しい表情で彼の背中を見ているのは、アマネとエヴリーヌ。

 かけるべき言葉はない。

 この状態は、単に涼が殺害されていた、というより、ある意味残酷だ。

 黄泉の国に飛び去るべき涼の魂は、邪な術によって封じられたまま地上に留まる。

 しかし、肉体はすでに存在しておらず、魂だけあっても「涼という個人」を再生させることは決してできないのだ。

 

「……おばあちゃまが、このようなお姿でなく、本当に今、ご存命でいらしたらね」

 

 手にした「マリー=アンジュ」を、じっと見つめるエヴリーヌの表情は重苦しい。

 目的は遂げた、決定的な破滅は避けられたはずなのに、罪もない一人の人外は救えないという、この矛盾。

 息を呑む「マリー=アンジュ」の青の美しさも、ここに至っては物悲しく映る。

 

「おばあちゃまなら、死んだ人外や人間を蘇らせるなんて、朝飯前だったらしいわ。蘇らせてもらって、ぴんしゃんしてご存命の人外って人にも、故郷で会ったことがあるもの。でも……」

 

 もしかしたらあと千年も生きて修行を積めば、エヴリーヌも祖母と同じような蘇生術を使える可能性はある。

 しかし。

 

「……策はある。少しばかり面倒だが」

 

 不意に、アマネが顔を上げる。

 エヴリーヌが、そして闇路が彼女に鋭い視線を向ける。

 

「反魂秘法の応用だ。だが、実際やるとなると、いささか面倒。成功率は低い。だが……」

 

 ふいっと、アマネはエヴリーヌを見る。

 

「その、『マリー=アンジュ』の魔力を使わせてくれれば、恐らく間違いなく成功する。エヴリーヌ、そちらを母君にお返しに行く前に……」

 

「お願いします。お礼ならいたします。金額に糸目はつけません」

 

 いつのまにか、闇路がアマネとエヴリーヌの元に歩み寄って来ている。

 いつになく真剣なまなざしで、二人を覗き込んだ。

 

「あなた方に無礼な真似をしておいて、図々しいお願いなのは重々承知です。しかし、どうか、私でなく、涼に慈悲をかけてやっていただきたいのです。あの子は今まで、悪事らしい悪事なんてしたこともない子なんです」

 

 アマネはうなずく。

 エヴリーヌに向き直る。

 

「エヴリーヌ。協力ついでに、最後の仕上げにも力を貸してくれんか? 涼がこのままでは、この件は本当には終わらない」

 

「……おばあさまがご存命だったら、確実に、涼を助けると思うわ。見て、これ」

 

 エヴリーヌは、「マリー=アンジュ」を右手の上に置いて二人に見せる。

 

「さっきから光っているの。アマネが、秘法がどうのって言ったあたりから」

 

 うふふ、と蠱惑的にエヴリーヌは微笑む。

 きっと伝説のヴィーヴルが生きていたら、こんな風だと確信させる笑み。

 

「決まりだ。……道了薩埵のところで、場所を貸してもらおう。行くぞ、お前ら、我らがこれ以上ここにいても仕方がない」

 

 アマネが風を呼び出す。

 羽毛が吹雪のように舞う。

 それが収まった時には、三人の人外の姿は、すでにそこにはなかった。

 

 後には、破壊され尽くした街が、静かに再生の時を待っているばかり。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

「さて……始めるぞ」

 

 そこは、箱根の天狗御殿の一室。

 何かの儀式の際に使われる、広い本堂。

 道了薩埵の姿を模した本尊が屹立し、手にした利剣を輝かせる。

 

 あれやこれやの準備で、時刻は夕刻にさしかかっている。

 輝く帝釈網始め、荘厳された本堂内部を、灯された灯明が暖かく照らす。

 

 床の上に、絹の布が敷いてある。

 見る者が見れば、天狗の種字が記されているとわかるだろう。

 その前にはアマネ。

 左手に、涼の魂が封じられた壺を持っている。

 右手を、右側に立っているエヴリーヌの手にした「マリー=アンジュ」の上に置いている。

 やや薄暗い本堂を、天空の楽園を思わせる青が圧する。

 アマネ、そして右隣のエヴリーヌ、更には左隣の闇路の姿が、三柱一組の神のように浮かび上がる。

 

 香炉から不思議な香りが立ち上る。

 

 アマネが何をしたものか、鋼線で封をされていた硝子の壺の封が解けていき、内部からうすぼんやりした光体が浮かび上がる。

 ――涼の、魂だ。

 アマネが何事か呟くと、その光体はゆらゆら渦巻きながら、空中に留まる。

 

「……闇路、血を」

 

 アマネが促すと、闇路は躊躇なく、手にしていた小太刀で、自分のてのひらを傷つける。

 吸血鬼の再生力で、すぐに傷口は塞がるが、その前に、それなりの分量の彼の血が、床に敷かれた布の上に滴り落ちる。

 

「図師涼。汝、再び肉体を得て、この世に留まるべし」

 

 アマネのその咒が終わる前に、「マリー=アンジュ」が、さながら発光する恒星のように輝き出す。

 アマネは感じる。

「マリー=アンジュ」をこの世に遺した人物が、涼に慈悲を垂れようとしている。

 犠牲者は犠牲者のままで黄泉に送られるべきではない。

 栄光ある者として、再び自分の人生を生きるべし。

 言葉にならずとも、その「意思」は、アマネを、エヴリーヌを、闇路を、そして涼の魂を貫いて震わせる。

 青い太陽はますます輝き、その魔力と意思とが、遠い異国の聖なる空間を覆い尽くした。

 

「……涼!?」

 

 思わず、闇路が息を呑んだのも道理。

 

 彼らの目の前に、萌黄縅の甲冑の若武者が立っている。

 そしてその目鼻立ちは、まぎれもなく、アマネもエヴリーヌも知っている、機嫌良さそうな、あの涼のものだったのだ。