「さ、寒い~~~~ッ!!!」
大道誠弥は、思わず口に出してしまう。
気温が低い訳ではない。
今はゴールデンウィークを控えた、春も深まった季節。
部活帰りの夕方とはいえ、空気は花の匂いと柔らかな湿気を含んだ暖かいものだったはず。
住宅街の屋根の連なりが、金と赤とラベンダー色の空に浮かび上がる夕暮れ。
自宅まであと少し、もう何年も空き地のままの、緑地みたいになった一角を通りかかった時である。
その寒気は、誠弥にとって慣れた、霊的なもの。
質の悪い「何か」が近付いている状況。
がさり、と。
道の端にまでせり出した葛で覆われた藪が揺れる。
誠弥は思わず飛び退く。
心臓がどうにかなりそうなほど早鐘を打つ。
視界が薄黒く染まる。
「何か」がいる。
ぬうっと、水面でも割るように。
夕暮れの影で覆われた藪から、何かが顔を出す。
人間……ではない。
赤黒い肌。
上半身は、夏でもないのに裸。
目鼻の比率が明らかにおかしい顔立ち、とどめは猪よろしく下の牙が突き出した口。
胸元に光る、龍神の牙がなければ気絶していたかも知れないほど、「それ」は濃厚な邪気を放っている。
「えっ……ひゃっ……!!」
悲鳴とも言えぬおかしな声が、誠弥の口から洩れる。
驚き過ぎて頭は真っ白だ。
なんだこれは。
まさか。
「よ、妖怪……!?」
誠弥はそう判断する。
今まで見たことがない訳ではない。
悪霊の方が遭遇比率は高い。
が、その悪霊が何かの理由で変化してこういう妖怪に変じる場合もあるし、住みやすいところにはどこからか来て住み着くこともあると、オカ研の仲間から聞いている。
「きゃきゃきゃきゃきゃ」
その妖怪が笑う。
猿のように、あるいは壊れた玩具のように。
「わああああああああぁぁぁぁっ!!!!」
誠弥の恐怖心は針を振り切る。
裏返った悲鳴と共に、誠弥は弾丸のように走って逃げ出そうと……
しかし。
「!!」
横転する視界。
衝撃。
自分が足をもつれさせて転んでしまったのだと、誠弥は愕然たる思いと共に認識する。
「ひっ!! あああ!!」
どうにか立ち上がろうとする努力も空しく、パニックに囚われ過ぎた体は言うことを聞かない。
ぺたぺたいう足音。
いつのまにか真上から覗き込んでいたその牙妖怪が、巨大な口をニンマリと……
凄まじい大音声が轟いたのは、その時。
不意に、視界からその妖怪が消える。
一瞬、何が起こったか理解できずに、誠弥は呆然とする。
あの北極の冷気のような寒さが消えている。
いつの間にか、誠弥は木立と藪の長い影が落ちる煤けた道に、ぼんより転がっているだけだ。
「おい。生きてるな? 食われてないか」
響きの良い低めの男性の声で、そう問われた。
顔を上げて、反対側。
いつの間にか、見慣れぬ人影が立っていたのだ。
自分と、年の頃は同じくらいの少年だ。
しかも、着崩してはいるが、同じ学校、県立城子高校の制服を着用している。
背が高い、風采の良い少年だ。
アッシュシルバーに染めた髪を長くしている。
シャープでくっきりとした目鼻は、いわゆる目力があるタイプで、ただならぬ威圧感を放射している。
だが、誠弥が一番驚いたのは、同じ学校だが見知らぬ少年のその姿だけではない。
誠弥の霊的な目には。
彼の背中に伸びる、大きな白銀の鳥の翼が見えたのだ。
冬の月のようにしらじらと輝く翼は、先端に銀灰色と月白色の目のような紋様がある。
まるで鳳凰の尾羽のような幾筋もの飾り羽が、背中から後方に数mも伸びている。
更にとどめは。
その少年の手の中に、ハンドキャノンと呼びたくなるような、大型のレトロな銃器が収まっていたことだ。
これは、地元の歴史を題材にした催し物で見たことがある。
「抱え大筒」というやつではないか?
「おい、大丈夫かよお前。腰が抜けたか」
威圧的な目つきだが、一応は心配していそうな彼の声に、誠弥ははたと我に返る。
「あっ!! あ、あの……ありがとう……」
わたわたと、誠弥は立ち上がる。
「あの……あなたは……」
「お前、オカ研の奴だな? ずいぶん霊感が強いな。お陰で首かじりなんかに目を付けられやがって」
不意にそんなことを浴びせられ、誠弥はきょとんとする。
僕、というかオカ研のことを知っている?
しかも、首かじりって何だ?
「く、首かじり……?」
「お前を食おうとした妖怪だよ。割と有名だからググれば出て来ると思うぜ。まあ、ググるくらいまででやめておけとは言っておくがな。しばらくオカ研とやらの活動は休止した方がいい。最近この街はヤバイ」
誠弥の心臓が、先ほどとは微妙に異なる恐怖で脈打ちだす。
どういうことだろう。
そもそも、この人は何者だ、人間ではない?
いや、オカ研にだって人間でない者は普通にいるが。
「あ、あの、それどういうことなんですか? あなたは一体……?」
白銀の少年が不敵にふっと笑う。
「お前くらいなら、俺の翼は見えているんだろう? 天狗なんざ、ググるまでもねえ。まあ、これは俺たちみたいな者同士の抗争なんだ。人外が混じっているとはいえ、素人には荷が重い」
誠弥はその言葉を聞いて怪訝そうに眉をひそめる。
抗争?
この人は今、抗争と言っただろうか?
まるで反社同士みたいに、人外同士が抗争を行っている?
「お前らの部長と顧問の奴がいるだろ。そいつらに伝えろ。天狗の羽倉元喜(はぐらもとき)が、しばらく大人しくしてろって忠告してたとな」
威圧的に言い放たれたその言葉に、誠弥は表面以上の空恐ろしい意味を見出したのだった。