「私に、国を売れ、と……?」
オディラギアスの声は強張っている。
「そういうことではないのじゃ、殿下。ルゼロス王国に変革が必要だというのは、殿下こそが一番感じておられたことではないかえ?」
穏やかに押し包むような優しさで、アンネリーゼは言葉を紡ぐ。
「その変革のお手伝いを、わらわにさせてほしいのじゃ。のう、その方がオディラギアス殿下の希望は早期に実現するであろう? あの父御やご兄弟に頭を押さえつけられた今の状態では、その改革はいつ行えるのかなど分かりませぬぞえ?」
オディラギアスの目が揺れた。
その通りだ。
野望は持っている、だが、今はその実行の目処すら、まともに立っていない。
思わず黙り込んだオディラギアスに、レルシェントはぎょっとする。
どう声をかければいいか。
今の一言はオディラギアスの深いところに到達した。
誤魔化されるな、代償は高くつくぞ、などと通り一遍のことを警告したところで、まともに受け取られはしないであろう。
「オディラギアス殿下には、お考えになるお時間が必要じゃのう?」
満足したようにアンネリーゼはうなずき、次いでレルシェントに向き直った。
「さて、レルシェント殿下。まこと、こうしてお会いできたことは、我が人生のなかでも屈指の幸運な出来事であるぞえ?」
華やかに微笑みながら、柔らかく暖かい声で、アンネリーゼはレルシェントに語り掛けた。
こうした弁舌に丸め込まれるほど、レルシェント自身は未熟でないつもりではあるが、それでも、警戒心の矛先が鈍るのを感じる。
それほど、アンネリーゼの人心掌握のカリスマは強烈だった。
「わらわは殿下を、女性として一人の人間として、尊敬するのをやめられぬ。この敵地に等しい下界に、たった一人で乗り込み、そして賛同者を増やしていった勇気と情熱、そして判断力の的確さ。殿下のその資質の半分でも、わらわにあればのう!!」
レルシェントは、呑まれないようにあえて苦笑した。
「買い被り過ぎですわ、陛下。あたくしはいささか無鉄砲な、一介の霊宝族に過ぎません。上手くいったのは、たまたまなのですわ」
「いやいや、たまたまで、ここまで上手くいくものではない。いやしくも国を統べる者として、わらわも人を巻き込んで新しいことを進める難しさを、よくわきまえているつもりじゃ」
アンネリーゼは、レルシェントの手をぐっと掴んだ。
柔らかく、しかし、断固とした手の力だった。
「わらわには、少なくとも親の代から受け継いだ、王権というものがあった。帝位を受け継いだら、この国のどこへ行っても、わらわは帝王ではある。そうじゃろう? じゃが、殿下がなされたことは、それとは訳が違うのじゃ」
「あたくしの目指したものは遺跡ですもの。それこそ、先祖の遺した遺構が、あたくしの味方になります。お思いになっておられるほど、あたくしは孤立無援という訳でもなかったのですわ」
殊更軽く告げると、アンネリーゼは笑い声を立てた。
「御戯れを。殿下が紛れ込まねばならなかったこの地上種族の社会は、殿下にとってまさに敵地であったはず。実際、このわらわですら、殿下についてのお話をうかがうまでは、霊宝族の方々をなにやら怪物めいた恐ろし気な存在と、漠然と捉えておりましたぞえ?」
そうなのか。
レルシェントはやはり地上種族にとって、霊宝族はそんなものなのだな、と認識を新たにする。仲間となった彼らは、運がいいことに、とりわけ寛容だったのかも知れない。
――他の要因も、あるであろうが。
「聡明な殿下が、地上種族の底の浅い考え如きを、喝破できなかったはずがございますまい。しかし、それでも殿下は地上での冒険を選んだ。並の胆力ではない。わらわの先祖だという豪勇の士の逸話も、そのほか無数の英雄譚も、殿下の前ではかすむというもの。これらの中の誰一人、たった一人で敵地へ潜入するなど、思いもしなかったのじゃから!!」
ぐっと強く手を握りしめられて、レルシェントはアンネリーゼの弁舌の巧みさに舌を巻いた。
「何かを知りたい、確かめたいという想い。これこそが、かつて霊宝族をして地上の覇者たらしめた原動力ではあるまいか? おお、尊敬する我が姉妹よ、どうかその輝かしい旅路の仲間に、わらわたちも加えては下さらぬかえ? その探索の旅に、わらわの配下を使ってやっては下さいませぬかえ?」
来た――と、レルシェントは思った。
当然であろう、話を聞くに、彼女が帝位に就いてから――いや、もしかしてそれ以前から、彼女が求めていたものは。
「のう、殿下、わらわは、この帝国の重みを背負わねばならぬ」
しみじみとした口調で、アンネリーゼはそう告げた。
暖かい手が、レルシェントの手を包み、ぐっと、豊かな胸元に引き寄せる。
艶麗な目鼻が間近でレルシェントを覗き込み、彼女をはっとさせた。
「時に重すぎると恐ろしくなることもある。しかし、じゃ。殿下のお力添えがあれば、その負担も半分になろうというもの」
そうだ、それがこの女帝の野望。
それでも、レルシェントは彼女の美貌から目を離すことができなかった。
「無論、ただとは申しませぬ。殿下始め霊宝族の皆さまには、この帝国での様々な特権を考えておりますぞえ? 特に殿下におかれては、このわらわの宮廷で特別な地位をお約束したい、わらわの導き手となってほしいと、殊に考えておりまする」
いつの間にか膝も接するほど、アンネリーゼはレルシェントの側ににじり寄っていた。
ふわんと暖かい良い匂いが、レルシェントの鼻孔をくすぐる。
ファッション同様、香りも、このアンネリーゼ以外が身に着けると仰々しすぎて下品になりそうなものが、彼女が身に着けると天与の贈り物のように思える。
「つまりは」
痺れそうな頭を、レルシェントはどうにか現実に引き戻す。
「陛下は、ニレッティア帝国の覇権のために、我らに力を貸せ、と……? オディラギアス様になされたお話と併せて考えるに、そういうことかと思えるのですが?」
アンネリーゼは切なそうな表情でますますレルシェントの手を握った。
「おお、そんな単純なことではない!! これは、地上を這い回るしかなかった我ら地上種族、そして地上への足掛かりを失った霊宝族の双方にとって、新たな時代への輝かしい一歩となるはずのものなのじゃ!!」
ふいっと。
ごく自然な仕草で胸に触れられ、だが言葉が衝撃的過ぎてレルシェントは固まったままだった。
「のう、レルシェント殿下!! わらわに力を貸してたもれ、うんと言ってたも!! 共に新たな時代の母として、歴史に永遠の名を刻もうではないか!!」
甘い吐息と熱っぽい視線にくらりと――
その時。
ドア越しに、太い唸りのような騒音が、びりびりと響いた。