1-4 サイド冴

「さ、どうぞ、主様《あるじさま》」

 まるで冴が起きるのを待ち構えたように、枕元に月蝕がほうじ茶と団子を持ってきた。あんこだ。

「大分消耗されましたから。とりあえず甘いものでも食べて落ち着いて下さいませ」

 一見、二十をわずかに過ぎたくらいの若者の姿に見える冴の式神《しきがみ》の一柱、月蝕大神《つきばみのおおかみ》は、いつも冷静で気が利く。多分、布団の上に身を起こした冴が着用している寝間着代わりのスウェットも、月蝕が着替えさせてくれたのだろう。

「……悪いな。……棘山は?」

「今、この邸宅周囲の見回りに出ています。万が一の用心のために。間もなく帰ってくると思うのですが」

 

 冴の疑問に、月蝕が答えたその時、ちょうど玄関の引き戸が引き開けられる音がした。ただいま、と野太い声。

「ああ、帰ってきましたね」

 月蝕が振り向く。

 冴は、どんな顔をしていいのか分からなくて溜息をついた。

 

 カーテンを引かれている窓を確認するまでもなく、外はもう夜中だろうと推察された。

 あの名前の知れぬ邪神に叩きのめされたのが夕方近くだから、たっぷり六時間以上は眠っていたということになろう。

 ますます溜息が重なる。

 

 月蝕は「邸宅」と表現したが、冴がこの地の拠点に選んだこの建物は、到底そんな言葉で連想されるような豪勢なものではない。

 面積としては、土地不足の東京生まれの冴としては確かに余裕があるように感じられる。

 だが、母屋は築四十年で壁にひびが入っているし、東京では見たこともないような大きなムカデだのヤモリだのが平気で屋内に出る。人が住まなくなって大分経っているらしく、噴き溜まっていた雑霊を掃除するのも面倒だったのが思い出される。

 

「主様。お目が覚められましたか」

 廊下をきしませながら歩み寄ってきた棘山が、露骨にほっとした表情で、冴の枕元に膝を揃えた。

 いかつい傷の目立つ男臭い顔が安堵で緩んでいる。

「すまない、お前たち。俺が不甲斐ないばかりに、危険な目に遭わせたな」

 冴は忸怩たる気分をねじ伏せてとりあえずは敗戦を詫びた。

 

 完敗だ。

 

 あの、邪神だという娘に、冴は勿論、突撃隊長・棘山大霊も、切り札の月蝕大神も、そしてこのチームの首魁であるはずの設楽冴も、ほとんど何もできずに敗退した。

 人間・祝梯妙羽を装うあの邪神の実力は、冴の予想を大幅に超えていた。

 そもそも、あの異世界からやってきたという邪神の情報をもたらしたのは月蝕だが、かの者を従えさせられるという判断を下したのは冴自身だった。

 今は、その判断の甘さを悔やまずにはいられない。

 奴は見たこともない術を使い、瞬時に冴たち三人を圧倒した。

 そもそも、最も実力的に突出しているはずの冴本人でさえ、奴の手下らしいあのデカネコに殴り倒された。月蝕が転移術を使って戦場から離脱させてくれなくては、そして更に、虫の息の冴に治癒の術法を使ってくれなくては、冴は間違いなく死んでいた。

 

「いえ、主様のせいばかりではございません。わたくしの掴んでいた事実は、奴についての情報の、ほんの一端でしかなかったのです。それを、さも全てであるかのように申し上げたわたくしが迂闊だったのです。誠に何とお詫びして良いやら」

 月蝕大神はしゅんと頭を垂れた。

 彼が唇を噛んでいるのが分かって、冴は頭を横に振った。

「いや。お前のせいではない。俺の判断ミスだ。退魔師だったら、従わせる『神』の実力くらい、霊気を読んだ瞬間に把握しておくべきだった」

 そうだ。

 棘山大霊を従えた時も、月蝕大神を従えた時も、冴は彼らの霊気の総量を正確に読み、十分勝てると踏んでから決戦に挑んだ。

 棘山は冴が十三歳の時、初めて式神に従えた「はぐれ神」だ。

 そして、月蝕は、去年棘山と共に挑んで実力でねじ伏せ、命を助ける代わりに忠誠を誓わせた「忘れられた神」だった。

 

 わずか十代半ばで、二柱の神を従える破格の退魔師である冴を、同業者は天才よ、神童よと褒めそやした。

 中にはやっかむ者もいたが、冴自身、なにより従える強大な神に対する畏怖から、露骨な非難は聞こえてこなかった。神と呼べるクラスの霊的生命体を従えられる者に、並の退魔師の呪詛、もしくは呪い返しが効くとは思えないからだ。

 冴の実力は、彼を厳しく育てた、同じく退魔師である父親も認めており、単純な霊気操作や霊気量では自分を超えていると認定していた。後は、経験が追い付けば問題はないだろうと。

 

 ならば。

 冴に足りないのは、経験だったのか。

 経験がもっとあったら、棘山と月蝕を従えた冴は、あの邪神に勝てたのか?

 

 いや、そうは思えない、と、冴は内心一人ごちた。

 

 下手な人間より自己抑制の効いた月蝕はおろか、いつもなら直情的で思ったことは顔にも態度にも口にも出してしまう棘山でさえ、押さえ込んでいる事実の指摘。

 

 冴たちと、あの邪神では、あまりにも霊気量の差がありすぎる。

「ネズミが象を従えて歩くことは不自然だ」と、あの邪神はへらへら笑いながら指摘してきたが、確かにそれと同等どころかそれを上回る実力差がある。

 あの妙羽という少女の姿の状態で、冴に読み取らせていたのは、言うなれば本来の力のほんの断片、毛の先を表に出したくらいに過ぎないのだ。

 

「今は、あのバケモノは周りにいませんぜ。手下らしきものも見当たらねえ。てっきり追撃してくるかと思ったら……」

 気を逸らすつもりか、それとも単に言わずにいられなかったのか、棘山はそう告げた。

「……今のうちに、逃げ……」

「駄目だ」

 冴は怒りを発するでもなく淡々と、不許可の意思を示した。

 

「お前、自分たちさえ良ければ、他の人間がどうなってもいいのか。あんな強烈な邪神を放置しておいていい訳がないだろう。この辺り一帯どころか、国一つ、下手をすると極東一帯がどうにかなるぞ」

 

 今の今まで弱って昏睡していたとは思えないほど強い口調の冴に、棘山は反論の言葉を見付けられず、ただうつむいた。

 

「しかし」

 この上なく苦い口調で口を挟んできたのは、月蝕だった。

「確かに、このままではどうにもならないという点では、棘山の言うことにも一理あります。我らだけでは、勝てないでしょう」

 月蝕は眼鏡の奥の怜悧な目を光らせて、事実を指摘した。

「応援を呼べと言うことか」

 冴は考え込む。

 果たして、応援を呼んでどうにかなるものなのか。

 今は、古の時代と違う。

 国が悪霊や妖怪、邪神退散のために法力を持った僧侶や神通力を持った巫女、修験者といったものを大規模に駆り立てた時代ではないのだ。

 どうあがいても、あまり大掛かりなことはできない。

 なにせ、かの名前すら知られぬ強大な邪神は、下調べの段階で、確かに普通の人間の夫婦の間に通常の方法で、長女として生まれついているということが分かっている。

 つまり、この社会ではレッキとした人間として扱われるのだ。

 周囲とのいさかいらしいいさかいもなく、ごく穏やかな暮らしをしている少女。

 その少女に素性の怪し気な――どう頑張っても、この時代では退魔師、つまり霊的な商売に従事している者は、胡散臭い者と見られる――連中が大挙して付きまとい始めたら、社会がどっちの味方をするかなど、火を見るより明らかだ。

 

 冴は、瞼の裏にぼんやり浮かぶ少女の済んだ水晶のような麗しいまなざしに気を取られ、次いでそんな自分にぎょっとした。

 自分は今、何を考えた?

 あのバケモノを美しいと思った?

 また会いたいと、ほんの一瞬思わなかったか。

 

 馬鹿な。

 

 冴は自分のそんなやわな部分を心の中で蹴散らし、放り捨てた。

 だが、強く否定すればするほど、脳裏に浮かぶのはあの澄んだ眼差しと光に満ちた雰囲気。

 そればかりか、邪神としての異形の正体すらも美しいと、思ってしまった。

 落ち着け、と冴は自分を叱りつける。

 まあ、美しい異形の者など、別段珍しくもない。

 男女とも、並の人間では到達し得ぬ魔性の美しさに、人外の者は到達することはある。

 それだけだ。

 今まで、見たことがない訳ではあるまいし。

 何を動じているのだ、自分は。

 しかし、あの美しさと強さに、身が震えるほどの感動を思い出して、そんな自分にまた、冴はぞくりとする。

 この蠱惑もまた、邪神の力なのだ。

 

「……応援を呼ぶこともままならぬとなると……一つだけ、別の方法もあるのですが」

 ためらいがちに口に出した月蝕に、冴ははっと顔を向けた。

「……どういうことだ? どんな方法がある? 答えろ!!」

 すでに忘れられた古代の知恵を持つ忘れられた神に、冴は何かを振り捨てるように言葉をぶつけた。