紅い刀身が神速で打ち振られた。
ぐにゃんと空間を歪ませるように、冴の刀から紅い衝撃が放たれる。
空間を攪拌しその場に働いているはずの法則をかき乱しながら、その紅い太刀筋は一帯の空間を呑み込んだ。
骨蝕はにやりとする。
一瞬にしてその姿は幽霊のようにぶれて薄く拡散する。
骨蝕の持つ固有の能力は「欺くこと」、そして「認識させないこと」。
それは霊子を含む素粒子の働きも含めて、だ。
観測することで波動関数が収束し、存在が固定されるのが、この宇宙の法則だ。
しかし、骨蝕の「欺き」の霊波は、「観測すること」と、その結果である「波動関数の収束」をも欺き、認識を阻害する。
つまりこの場合、骨蝕はどこにでもいてどこにもいない。
いかなる攻撃であろうと、霊子含む素粒子の波動関数が収束していないなら触れることはできない。
しかし。
「がぁあっ!!」
骨蝕は悲鳴を上げた。
冴の紅い衝撃に触れた途端、いきなり骨蝕の特殊能力が無効化された。
瞬時にその肉体及び霊魂体は一点に収束し、そのまま冴の攻撃に巻き込まれた。
不気味な色彩の鮮血が無数の筋となって迸り、下半身の蛇の頭の一つが切り落とされていた。大ダメージである。
砕けた眼鏡が、かしゃりとささやかな音と共に地面に落下した。
「馬鹿な……これは……これは……」
唖然とする骨蝕に向かって、冴は傲然とした表情を向けた。
「お前がどういう力を持ってるのかは、大体分かっている。攻撃も何もかも、この世の理《ことわり》すら誤魔化して、自分の都合悪いことは存在しないってことにしちまう、だったか。だがな、そいつの破り方は希亜世羅と新しい先輩諸氏が教えてくれたぜ」
ニヤリと、獰猛な笑い。
「俺に与えられた新しい力は、『《《かくあるべしと願ったことが実現する力》》』だ。要するにお前がどんなごまかしを打とうと、《《俺が》》『《《この攻撃は当たる》》』《《って信じ切れば実際に攻撃が当たる》》んだよ。そしてお前のチンケなごまかし力より、俺が希亜世羅にもらった力の方が上回る」
その説明を、わずかに憐れむような冴の表情を、暗澹たる気持ちで骨蝕は聞いていた。
そうだ。
これこそが、希亜世羅と、その創造物の恐ろしいところだ。
この世界で基本の「観測するという行為」を、希亜世羅とその創造物の持つ「かくあるべしと規定する力」は上回る。
かつて自分が元いた星を、散々に荒れ果てさせたのは、この力なのだ。
かつて自分を解き放つきっかけになった力が、今度は自分に牙を剥く。皮肉過ぎて言葉もない。
希亜世羅は、まだこの力を取り戻していないと思っていた。
不完全な今こそ、支配の好機だと思っていた。
全く、甘かった。
このような力を他者に分け与えるのだ。
完全ではないにせよ、予想よりはるかに希亜世羅は力を取り戻していた。
ひゅっ、と、冴の背後に、灰色の濁流が噴出した。
まるで破裂した水道管から水が噴出するようなそれは、無数の蛇か触手に似た霊体だ。
冴のたくましい背中に突き刺さるより早く、そこに巨大な鏡面のような輝く膜が広がった。
蛇というより、触手が極太のミミズのような霊体の群れは、その輝きに触れた途端、無数の光の粒になって分解した。後には何も残らない。
「さっきのが『在りし日の紅《くれない》』、今のが『虚無の鏡』だ。まだあるぜ。どうする? 降参するか?」
静かに静かに、冴は最後通牒を突きつけた。
「……逃がしてやることはできないが。せめて苦しまないように始末してやる。……お前は、悪質過ぎる。俺を欺いただけだったら、俺が退魔師として式神に侮られるほど未熟だったってだけだ。だが、お前は、希亜世羅までもてあそぼうとしただろう」
冴の目が怒りに燃えた。
「……何に引き換えても、あいつだけは守らなくちゃならねえ。だから、お前を許すことはできねえんだ」
突如、冴の視界の中に嵐が荒れ狂った。
視界の中のもの、周囲にあるあらゆる存在が揺れている。
まるで古い型のテレビの画面みたいに、その孤立した空間全体が揺れ動いた。
しまった、と冴は内心臍を噛む。
骨蝕は、「欺き」の霊力を、自分自身ばかりかこの孤立した空間全体に使ったのだ。
自分の技で、破れるか、というよりも。
地上に残してきた、希亜世羅たちが心配になる。
だが、確認する暇をくれるような敵ではない。
「彼女」を信じるしかない。
無数に分裂した骨蝕が、あらゆる方向から一斉に冴に殺到した。
ある者は術を放ち。
ある者は、背中の骨翼を刃にして。
しかし。
不意に、足元から光が湧き上がるイメージ。
混乱の極みにあった世界が急激に収束する。
同時に万色の光輝に彩られた何かが視界を洗った。
次いで、目の前にいたのは、体の三分の二近くを失った骨蝕だ。
恐ろしいことに、胸から下と翼が半ばなくなった姿で呆然としている。
目だけかっと見開かれたその顔は、自分に何が起こったのかをまるで把握していないことを示していた。何で生きていられるのだろう。
「冴くん!!」
物理的な空気の振動より早く、暖かい思念が冴の背中を押した。
希亜世羅だ。
俺の女神。
助けてくれた。
冴は情けも容赦もなく、紅神丸を振りぬいた。
刃で唐竹割になり、込められた紅い魔子流に粉砕された骨蝕は、驚くほど軽い音と共に、この宇宙から消え去った。