気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ……
塩野谷光彩(しおのやひかる)は、小さなか細い声で、ずっとそんなことを呟いている。
夜である。
都会の路地裏は、街灯がついていても、そこここに黒いわだかまりが見える。
片側の商業ビルの背面は暗く、反対側は去年まで店舗が入っていたが今は売り物件の札がかかる微妙に古びたビル。
光彩は、彼女はうつむいたまま「気のせいだ」を繰り返す。
……怖くて顔を上げることができない。
上げたら、さっきからずっとビルを飛び越え飛び越え飛び渡りしながら、ついてくるあの「影」が目に入ってしまうから。
一見、人間に見える。
最初は、誰かがビルの窓辺にいるのかと思っただけだったのだが。
動きが、おかしい。
なんで人間なのに四つん這いで動くんだろう。
なんで、よく見たら腕だけあんなに長いんだろう。
なんで、そこだけ重力がないみたいにひらひら動き、ワイヤーで吊られているみたいに宙を滑って隣のビルに飛び移っていくんだろう。
あれはなんだろう。
光彩はパンツスーツに包んだ体を足早に前へ運ぶ。
ここを抜けて通りに出れば、向かい側に自分のアパート。
地獄は、あと10m足らず。