「ねえ、塩野谷さん。さっきのお話、詳しく聞かせてくれない?」
不意に話しかけられ、光彩ははたと顔を上げる。
昼休みである。
大きな病院前の薬局はまだ忙しいが、早番で出勤していた光彩は昼休みが始まる早々にバックヤードに引き返す。
リノリウムのクリーム色の床に、流しと幾つかのテーブル。
隣のビルとの間の路地に面した窓はぼんやりした影を映すすりガラス。
そんな社員共用の休憩スペースで弁当を広げた矢先、テーブルの向かい側に、彼女が座ったのだ。
先輩の奥山紗奈(おくやまさな)。
落ち着いた大人という感じのベテラン薬剤師である。
豊かな黒髪をバレッタでまとめ髪にした美人だ。
包容力があり仕事もできるし理不尽なことは言わないので、光彩も慕っているのではある、が。
「お、奥山さん!?」
奥山と対照的な童顔の光彩がはっとすると、
「さっきの、帰りに通る暗い道でおかしなのが見えるっていうの。気になってるわ。知り合いに似たような状況になった人がいてね。ある人が助けてくれたそうだけど、あなたも何とかなるかも」
椅子を引いて、光彩の前に座る奥山の表情は真剣だ。
とうてい与太話を聞きに来た風ではない。
「え、さっきの話ですか……。いや、そんな。大したことではないんです。多分、ちょっと疲れてるのかも」
光彩は、軽く笑って誤魔化そうとする。
先ほど流しの前で中番に入った同期と、昨夜見た奇怪な影の話をしたのだ。
そういえば後ろを奥山が通りかかった気がする。
聞かれていたのか。
軽い与太話として処理しようと言う光彩の目論みは、しかし、崩れる。
奥山は身を乗り出す。
「そのおかしな影、最近ずっと付きまとわれてるんでしょう? あなた、病気でもないのに、そんな幻覚を長期間見るなんておかしいわよ」
光彩は言葉に詰まる。
あのことが頭について離れないのは、まさに「疲労による錯覚程度のことにしてはおかしすぎる」からであり、正直に言うなら、どうしたらいいか途方に暮れている。
――助けてくれる人がいる?
――ああいうことから?
――奥山さんはその方法を知っている?
どくん、と光彩の胸が高鳴る。
真面目に話していいのだろうか。
迷う。
あれは気のせいだと、自分にも言い聞かせてきたのだ。
しかし、度重なる怪奇現象に、光彩の精神が限界に近付いていることも事実。
「気のせい」のはずのあの影は、次第にはっきり、強く自分をアピールしているように感じる。
まるで……
どこかに追い込もうとしているように。
「まず、いつ頃から始まったか、どんな風に見えるか、話してみて?」
助けられるかも知れない。
その言葉に、光彩は我慢してきたものが決壊して流れ出すのを感じる。
彼女は、話し出す。
◇ ◆ ◇
……帰り道とか、なんか変なのがいるなあって気付いたのは、一か月半くらい前ですかね。
うちの近所、貸しビルだけどテナント入っていないところがあって、帰り着く前は暗くて寂しい場所通らないといけないんですよ。
その日も、嫌だなあ、気味が悪いなあって思いながらそこを通って。
そしたらですね。
人がいるんです、その誰もいないはずのビルの、二階の窓辺に。
「あれ、テナント入ったんだ」って、最初は思ったんですよねー。
あー、これで、少しは帰り道明るくなるかなって。
でも、違ったんです。
その影。
急に四つん這いみたいな姿勢になって、ビルの壁面をぴょんぴょん跳びながら、ついてくるんです……。
なんでしょうね、あれ。
怖過ぎるとパニックも通り越して、現実逃避しちゃうことありますよね。
いや、変に思われるから今まで黙ってたんですけど、子供の頃から、変なのは見がちだったんですよね。
でも、取り立てて何かされたってほどのことは滅多にないんで、いつしか「気のせいだ」で片付ける癖がついたんですよ。
だって、こんなことまともに聞いてくれる人いないじゃないですか。
で、その時も気のせいだって思い込むことにして。
見ないふりをしたんです。
……バッチリ、見ちゃってましたけど。
なんだろう、全体的には人間っぽいんですけど、体形が変だし、顔が……
目鼻が所定の位置についていない感じ?
手足がゆうゆう長くて、もそもそ歩いているように見えるんですけど、異様に速いんですよそいつ。
ビルの間を飛ぶ時は、まるでワイヤーで吊られたようにすうって感じで、明かに生きてるものじゃないんですよね、動きが。
もう、どうしていいかわかんない。
つうか、おかしなのに付きまとわれても、無視していたら消えたりするから、その日から無視したんです。
帰り道も変えたりして。
駄目でしたけどね。
どういう訳だか、私が通る先々に出るんですよ、その変なの。
職場からの帰り道ばっかじゃなくて、休日にでかけた映画館の側に出た時には驚きました。
私以外には見えてないみたいでしたけど。
……怖くないか、って言われても。
怖いですよ。
でもどうしようもないじゃないですか。
……「気のせい」ってことにする以外、方法ってないじゃないですか。
そうでしょう?
◇ ◆ ◇
奥山は、時折簡単な質問を挟みながら、じっくり光彩の話を訊き出す。
一通りの話を聞き終えると、メッセージアプリで、どこかに連絡しているような仕草を見せる。
「多分、何とかなる、すぐその塩野谷さんと接触しますって、助けてくれる人が言ってくれたから」
その言葉に、光彩は目をぱちくりさせる。
「え……誰なんですか? その助けてくれる人って」
アヤシゲな宗教関係者じゃなかろうな。
奥山がそんな感じではないので思いもしなかったが、どうもその可能性も否定できないのでは?
光彩が青ざめていると、奥山は苦笑する。
「怪しい人じゃないわよ。ほら、薬のメーカーの。『常世田製薬』ってあるでしょ? そこの人」
えっ、と小さな声が、光彩の喉から洩れる。
大企業ではないか。
もちろん、この薬局にも常世田製薬の薬は数多く納入されている。
「え、製薬会社の人がこういうこと片付けられるんですか? 奥山さんはどんなお知り合いで?」
思わず尋ねると、奥山はかすかに微笑む。
「私が……というか、正確には娘が、あなたとはちょっと違うけど厄介ごとに巻き込まれてね。その時、助けてくれた人よ。大丈夫、本社の役員さんの御子息で、身元ははっきりしてるから」
そういえば、奥山には高校生の娘と中学生の息子がいたはずだと、光彩は思い出す。
「あなたが帰る頃にお迎えに来られるそうだから、そのつもりでいてね」
そう断言されては、今更断る雰囲気でもない。
やがて、冬に比べれば、日も長くなった春の夕方。
「失礼。塩野谷光彩さんというのは、あなたですか?」
職場である薬局の裏口、職員専用通用口。
そこに姿を見せたのは、ピシッとしたスーツ姿の、まだ若いといえる年齢の男性二人組であった。