「……塩野谷さん。どなたからの電話ですか?」
玻琉が怪訝な顔でそう問いかける。
明らかに光彩の表情がおかしいのだ。
「あの……元カレなんです。大学時代の……」
もう何年も連絡取ってないのに、何で急に……?
光彩は鳴り続ける電話をまじまじと見る。
「……一応、出てもらった方がいいッスかね? ちょっと匂うッスよね」
央がすっと目を細めて、玻琉に視線を向け、続いて光彩に目を向ける。
玻琉は、うなずいて光彩の肩に手をやる。
「スピーカーにして、録音してから出てもらえますか? 今の状況で、昔親しかった人が急に連絡してくるのも、央の言うように、いささか匂う」
光彩はうなずき、手早くスピーカーにして、録音ボタンをタップする。
手元にメモを一応置いて、そのまま出る。
「あの……もしもし……」
『光彩さん!? 塩野谷光彩さんですよね!?』
光彩の耳に飛び込んで来たのは、かなり興奮した女の声である。
彼女は一瞬誰かわからず困惑する。
ちらっと横を見ると、玻琉も央も予想外の事態に顔を歪めている。
スマホからかけているはずなので、誰かが間違い電話をしている可能性はない。
しかし、光彩はその女の声に聞き覚えはないのだ。
どういうことだと、疑問符が彼女の脳裏に点灯し続ける。
「はい、あの……どちら様で……」
『私、あなたの彼氏の中江宗助(なかえそうすけ)の妹です。一果(いちか)っていいます』
怒りを懸命にこらえている声音で、その一果という若い女は告げる。
光彩としては、全く訳がわからない事態だ。
何年も連絡など取り合っていない元カレの妹が連絡してくるとは、どういうことなのか?
もちろん、この中江一果という人物のことは知らない。
彼氏と同じ大学時代、宗助は家族は田舎にいると言っていたように記憶している。
妹がいるという話はちらっと聞いた記憶があるが、本人には会ったことがない。
その妹が、自分に何の用なのか、光彩にはさっぱりわからない。
兄の元カノなど、どう考えても他人でしかないではないか。
「ええっと、どういったご用件でしょ……」
『どういったって!! よくそんな薄情なことが言えますね!!! 兄さんはあなたに何度も連絡していたのに、無視して!!!』
叫び声が、スマホのスピーカーから飛び出す。
玻琉と央は、思わずといったように顔を見合わせ、身に覚えのない光彩は、一瞬頭の中が白くなる。
「あ、あの……私、別れてから宗助さんに一回も連絡なんかもらってませんよ……? どなたかとお間違えではないですか?」
光彩はそうとしか思えない推論を、穏やかな口調で一果に告げる。
多分自分と別れた後で付き合った別の誰かと間違えているのだろうが、こんな話になるとはどうなっているのだ。
何故、妹が兄の交際相手に怒り狂いながら連絡してくるのか。
そもそも、当の宗助はどうしたのだ。
到底穏やかでない状況が思い浮かぶ。
と。
素早く、玻琉が手元のメモに何か書きつけて、光彩に見せる。
<元カレさんは今どうしているのか訊き出してください>
光彩はうなずく。
「あの、宗助さんに何かあったんですか? 私何も聞いてなくて……」
『何かあったんですか!? 何も聞いてない!? 酷い女!! 兄さんは最後まであなたの名前を口にしてなくなったんですよ!?』
絶叫と言うべき一果の声に、光彩はぎょっとする。
亡くなった。
宗助が亡くなっていた。
気の毒ではあるが、そもそもかなり記憶が薄れている人物であり、そう深い悲しみが湧き起こってくる訳でもない。
この妹氏が言うように、しょっちゅう連絡を取り合っていたならかなり違ったかも知れないが、別れて以降接点はない。
別れ自体も淡々としたものであったし、そう大きな思いが、何年も残るといったことはない。
何故、その元カレの妹が、自分を薄情者だとなじりに電話をかけてくるのか、まるで理解できない事態だ。
「あの……宗助さんのことはお悔やみ申し上げますが、本当に私は連絡はいただいてなかったです。いまうかがって、びっくりしたところで……」
やはり誰かと間違えているのだ。
その人と亡くなるまで連絡を取っていたのだろう。
妹氏は、スマホの中の連絡先を、別の誰かと間違えたのではないか。
そうとしか思えない。
玻琉が、また素早くメモを見せてくる。
<何故、亡くなったのか訊き出してください>
「あの、宗助さんて何で亡くなられたんですか? お元気な方だったように記憶しているんですが」
電話の向こうで、一果が興奮のあまりひゅっと息を吸い込むのが聞こえる。
しまった、と、光彩はやや後悔してしまう。
『知らないなんて言わせませんよ!! 病気になってから、兄さんはずっとあなたに連絡を入れてたじゃないですか!! 田舎に帰ってからこっちの病院に入院している間ずっと、あなたに連絡してたはずなのに……!!』
光彩はますます真っ白になる。
理不尽さと、知っていた人間が若くして急死していたことへの驚きは強い。
どう考えても、一果は光彩と誰かを間違えているとしか思えないが、興奮し切った彼女に、正論が通じるとは到底思えない。
どうしたらいいのだろう。
ふと。
玻琉が、光彩の手から、スマホをむしり取る。
「失礼。代わりました。塩野谷光彩の彼の村雲ですが、うちの彼女に何か御用ですか?」
光彩ははっと顔を上げ、暴力的な電話の矢面に出てくれようとしている玻琉の姿が、有難さで滲むのを感じる。
今の彼氏、という設定で代わってくれたのだ。
あの手の付けられない一果の頭にも、水がぶっかけられたかも知れない。
『えっ……何よ、あんた。彼氏!?』
一果の声は、案の定だいぶトーンダウンしている。
光彩はほっとして、思わず央と顔を見合わせる。
央はニカッと笑い、手にしていたメモ帳に、「だいじょうぶ、先輩に任せて」と書いて見せてくる。
「ええ、去年からお付き合いしていますけど、あなた、何なんですか? 大きな声なんで聞こえましたけど、元カレさんの妹さんですか? うちの光彩とお宅のお兄さんが連絡を取り合っていたって、そんな事実はないはずですが?」
本当の彼氏が彼女を庇うように、玻琉は一見冷静だが威圧的な低い声で、そう言い渡す。
『そっ、そんな……兄さんは確かに……』
明らかに、動揺している一果の声がスピーカーから聞こえる。
「俺は、光彩のスマホ見せてもらったことがありますが、あなたのお兄さんらしき人とのやり取りの痕跡なんかなかったですよ。俺以外は、普通に友達とのやり取りくらいで。あなた何でそんな嘘つくんです? 光彩にどうしてほしいんですか?」
玻琉がたたみかけると、電話の向こうからは沈黙が落ちる。
数瞬ののち。
『せめて、光彩さんが、兄さんの葬式に出てよ。渡したいものがあるって、兄さんも言ってたの』
玻琉は、電話口で考え込むように。
央は、自分のスマホを取り出して、玻琉に何か見せている。
光彩は凝然と、まるでその場に件の人物の亡霊がいるかのように、玻琉の手の中にある、自分のスマホを見つめているしかなかったのだった。