その女は、血まみれで倒れ伏している幼児に近付いた。
周囲は騒然としたままだ。
ひき逃げだ、という叫び。
白茶けたアスファルトには、急ブレーキと急発進の際の生々しいタイヤ痕がくっきりと。
住宅街から大通りに出る間際のそこには、用心しろよとばかりに大きなカーブミラーが据え付けられていたが、件の犯人は、それに格段の注意も払う必要を認めなかったらしい。
数人の大人が、哀れな幼子を取り囲んでいた。
心臓マッサージをしている男性がいるが、その小さな女の子の体に変化はない。
血まみれの顔は、すでに死人の土気色を呈していた。
その女は、血の惨状に近付いた。
長い黒髪、サマーニットとクロップドパンツという、小綺麗だが目を引かぬ格好。
ただ、何となくその女を見ると、胸がさわさわざわめくのが奇妙といえば奇妙であるが、この修羅場では誰もそんな些細なことには気づいておらず。
彼女は、血だまりの中、幼稚園のスモッグを赤黒く染めて倒れるその幼子にかがみこんだ。
「おい、あんた、邪魔だからどいて……」
言いかけられるのもかまわず、その女は幼子に触れた。
その瞬間、ぴくりともしなかった幼子の体が、何かに打たれたように跳ねあがった。
周囲の誰もが、ぎょっとする。
見る間に幼子の顔に血の気が戻った。
ねじれていた手足がまっすぐに戻る。
幼子が、目を開けた。
自分に何が起こったかわからない様子で、周りを取り囲む大人たちを見回す。
驚愕の声が上がった。
騒ぎを後に、女はそのまま、一陣の風のように立ち去っていた。
◇ ◆ ◇
「さ、行ってらっしゃい」
その女は、色白で線の細い、大人しそうな少年にそう告げて、背後からぽんと肩を叩いた。
空気が金色に染まる夕暮れだった。
近隣の高校のブレザーを着た少年は、学生カバンを下げたまま、まっすぐに進んだ。
その目には、決意の光がある。
住宅街に繋がる、ささやかな商店街、そこにいかにもな悪ガキがたむろしていた。
そいつらはどこがどうという訳ではないが、尖って汚らしく見えるという点で、病気の狐か、ネズミに似ていた。
神経質そうな顔にいやらしい笑みを浮かべて、「獲物」であるはずのその少年を待ち受ける。
少年と同じ種類のブレザーを着込んでいるはずだが、大きく着崩しているせいで、全く別の衣類に見えた。
「来た来た、キタァーーーー!! ……!!」
四匹ほどいる狐の群れの一匹が叫んだ。
なぶってやるぞという宣言だったが、その裏返った声はいきなり途絶えた。
その声を上げたその一匹が、突然沈黙し、同時に足元から崩れ落ちた。
「おい……!?」
隣の狐がびっくりしたように振り返る。
と、同時にそいつも倒れた。
古くなった立て看板が、支えを失って自然に倒れるのに似ていた。
「なんだ……」
残りの二匹が、異変と目の前の少年の関連性に気付いた。
倒れた仲間と、強い視線で彼等を睨む少年の間に視線を行き来させた。
「てめ、なにしやが……!!」
最後まで言うことはできなかった。
そいつも、ぐるりと目を裏返させた後で倒れた。
最後の一匹は、息を呑んだ。
どういう訳だか、今までなぶり放題だった目の前の少年が、何か奇妙な手段を見つけたのだ。
今までは自分たちの顔もまともに見られなかったのに、いやに据わった目で自分を睨みつけていることからもそれがわかる。
初めてそいつは恐怖を感じた。
「獲物」が自分たちの方だと、ようやく気付いた。
「ただで済むと思うなよ……っ!!」
いきなり身をひるがえし、仲間を放り出したまま、最後の一匹は逃げた。
大丈夫、自分には地元名士の父親がついて……
どざり、という音は大きく聞こえた。
走った慣性そのままに、そいつの体は前のめりに倒れ、そのまま仲間たち同様、動かなくなっていた。
◇ ◆ ◇
「……ふむ。『魔術発動症』患者、これで千二百六十四人、か……」
五十絡みの大柄な和装の男性が、スマホを耳から離した。
「さて、ずいぶん暴れたようだな、『魔法の母』さんよ?」
明るい日差しが降り注ぐ部屋は、バルコニーに続くサッシから見える景色からすると、高層のマンションの一室らしい。
その部屋の真ん中、シングルソファに、女が座っていた。
長い黒髪、妙に胸をざわつかせる、嵐の空のように美しいが不穏なまなざしの、若い女だった。
二十代の半ば程度か。
今日は、袖に刺繍の入ったブラウスに薄手のスカートという、これまた若い女としてはごく普通の、目立たない格好だ。
「人を病原体みたいに言わないでほしいな。まあ、どうでもいいけどね」
自分の父親くらいの年齢であろうその男に、女はぞんざいに言葉を投げた。
「どうでもいい、か。どうせここからいつでも出ていけるから、か? そんなことが問題でないと、気付かぬわけがないだろう?」
男は、女の正面に置かれたソファにどっかりと座り込んだ。
「魔法は、神々自身や、天使が、冥界や天界から盗んできた、というのが、世界の神話の標準だが……」
「私は、誰からもどこからも盗んでなんかいないよ。元々持ってたものだよ。人に分け与えるようになったのが最近ってだけの話でね」
女はしれっと応じた。
「比較的新しい宗教が、魔法をタブー視して弾圧したのは故亡きことではない。世界がひっくり返るぞ」
「奴隷が王に、王が奴隷に。強い者が取れなくなり、捕食者が獲物にって? 嘘だね。そんなことを気にしてるんじゃないんだろう、あんたらはさ」
女にせせら笑われ、男は眉を跳ね上げた。
「あんたらの一応のご主人様ってことになってるような連中が、自分の身を危ぶんでいるんだろう? 知ってるかい? 古代アッシリアで魔法使いの弾圧が始まった訳は、国王自身が魔法による危害にさらされたからだそうだよ」
男は大きくため息をついた。
「誰もが、後ろ暗いところがない訳ではない。敵に姿をさらしたら、死ぬかもしれないのではやってられないだろう。わからないのか?」
「あんたの考えがどうか知らないけど、魔法はもう世の中に解き放たれた。大昔みたいに何千年もかけて気長に弾圧でもする?」
ああ、ついでに言っておくと、私を殺したところで、魔法の拡散は止まらないよ。
明らかになったものを「なかったこと」にするのは、昔みたいに容易じゃないんだ。
それに、私が魔法を分け与えた人たちは、あんたの意見には賛成しないと思うよ。
そういう人を選んだつもりさ。
女はそう言って、更に深く笑う。
男は立ち上がった。
「とにかく、当面はここにいてもらおう、『魔法の母』。遠い異界に封じた災いをもたらした責任は、何らかの形で取ってもらうぞ」
「ああ。気が向いたらここに戻って、進捗を教えてやるよ」
ぐにゃりと、男の視界がゆがんだ。
はっと彼が目を開けた時には、誰もいない部屋がそこにあるだけだった。