その影は、まるで夜の鳥のように、その女性に襲い掛かった。
まるで映画の中の悪霊のように、漂うような不気味な動きの人影が、夜を横切った。
通行人の女性は裂くような悲鳴を上げたが、あっという間に街灯の光の環の中から、木立の影に引きずりこまれた。
昼間だったら涼しい木陰を提供するその大木は、今や都会の夜の薄闇に浮かび上がる、地獄への門だった。
この辺りではごく普通の女性。
白人で四十がらみ、いいところの奥様風。
彼女の上に覆いかぶさるのは――影だった。
それは、影としか言いようがない。
黒い、ぞろりとしたワンピースのような衣類を身に着けている。
ラメでも織り込んである衣装なのか、夜闇の中になお黒く深くきらめく影が、空間を穿っている。
長い髪が落ちて、悲鳴を上げる犠牲者に降りかかった。
昼間なら綺麗な金髪であろうが、闇を透かして死衣のようにとぐろを巻いている。
「やめろっ!!」
鋭い制止の声と、その黒い影が動きを止めるのは同時だった。
「影」は、まるで見えない巨大な手にひっつかまれているように、犠牲者から引き剥がされた。
ぎしぎし音がしそうな動きで、まっすぐに立つ。
いや、何者かに立たせられているのか。
そいつの、目の前に人影が立った。
こちらは鮮やかにきらめく女の影だ。
虹色の髪は月虹のように闇夜に淡く、しかしあでやかに浮かび上がる。
双子の星のように、大きな目がきらめいた。
薄闇の中でもうかがえる、匂い立つ色香のある美貌。
蠱惑的な肢体を、スタッズ付きのショートパンツと薄手のニットで覆っている。
「あなたはどこの神魔? 見ないタイプね」
その女、D9と米軍で呼びならわされている存在は、その不気味な影にそう呼びかけた。
彼女の目から放射される、九頭龍、創世の龍の幻惑の力は、完全に目の前の不気味な神魔の自由を奪っている。
そいつは形だけ見れば、人間の女性に近い。
しかし、人間であろうはずがない。
水流にもまれる木の葉のように、ひらひら飛び回る人間など、いるはずもないからだ。
それに加え、D9の目はそいつの異常を映し出していた。
紅く輝く双眸。
長く伸びた牙。
そして、翼というより、ある種の魚のひれのように伸びた、背中の薄黒い炎のような瘴気。
霊体系の神魔か。
D9は訝しむ。
日本にいたころだったら、オタクらしく「アンデッド系」とでも表現したかも知れないが。
やれ、レイスだのスペクターだの。
しかし、その動きに生気がないにも関わらず、そいつ――彼女と表現すべきか――の肉体は、霊体のようなあやふやなものではなかった。
きちんと厚みを備え、普通の人間と変わらない体格をしている。
D9の目そのものをその辺の神魔がごまかすことは不可能。
つまり、実体に間違いないのだ。
「あなたは……」
D9は、脳内で素早く検索を開始した。
創作物からでない、「実物」としての神魔の外見情報は、ほぼD9が特務部隊Oracleに所属してからのものしかない。
限られた情報を元に、画面映えさせるべく極度に誇張された映画やゲームからの情報は、ほとんど役に立たなかった。
と。
いきなり、物凄い風圧に背を押され、D9は思わず身を低めた。
巨大な黒い影が、一瞬その場に降ってきた。
巻き起こされる強烈な風圧に、さしものD9も揺さぶられる。
気が付いた時には、目の前の不気味な影がいなくなっていた。
気絶した人間の女性が倒れ伏しているだけだ。
はっと、D9は上空を見上げた。
舞い上がる巨大な翼の影。
クジラくらいありそうな巨大さだ。
都会の薄闇にまばゆく浮かび上がるその翼は、黄金に紫と緑が交互に現れるような、複雑な色彩を見せていた。
――雷の色だ。
その雷色の巨大な翼は、ぐんぐん舞い上がった。
その下に巨大な鉤爪、そこにあの不気味な神魔がひっつかまれているのが、D9の蛇の目に捉えられた。
激しい稲光が、周囲を照らした。
雷雲がある訳ではない。
その、雷色の巨大な鳥の羽毛を奔るように、雷が流れた。
何かが焦げる臭気。
巨大な鳥に捕らえられていたあの神魔が、雷に焼かれて崩れ去るところだった。
「サンダーバード……?」
D9は、良く知っているその神魔の種族名を口にした。
ネイティブアメリカンの間に伝わる、雷の精霊。
海からクジラを掴み上げる巨躯を誇り、目は稲光を発するという。
D9はその種族に属する同僚の名を口にした。
「ライトニングさん!?」
雷を発するその巨大な鳥の目が、ぎろりとD9を向いた。
「ちょうどいいところで会ったねえ、新入りちゃん!!」
さばさばした陽気な女の口調が、D9に投げかけられた。
「悪いが、ちょっと手伝ってくれないか!? あたしだけじゃ手こずる数だ!!」
言われて周囲の空を見上げると、あの不気味な影が、まるでコウモリの大群のようにひらひら飛び交っていた。
見える範囲で、二十は下らないか。
「今行きます、ライトニングさん!!」
D9は、今や慣れ親しんだ感覚となった「それ」を解放した。
かりそめの肉体が、真の形を取り戻す。
九頭龍の姿となったD9は、正体不明の敵の溢れる夜空に、新しく生まれた星のように輝きながら、昇っていった。