「大丈夫か? どこか怪我は?」
不意に、スチームパンク衣装の黒銀髪少年が振り返ってそう声をかけ、チカゲははっと我に返った。
「……え、あ、大丈夫……ありがとう……」
あまりに急な展開に、ぽかんとしていたチカゲは、ようやくそれだけ絞り出した。
「ごっめーん。ビックリするよねぇ。でも、助けてあげたんだし、それで相殺ってことにしといて、ね!?」
スチームパンク少年の隣にいた、トレジャーハンター女性がけろっとした口調でウィンクする。こだわりのないその雰囲気と口調に、チカゲは何だかあっさり巻き込まれた。どっちかというと、その女性のウェーブした美しい髪が真珠色で、大きな瞳がジルコンみたいな光の強い虹色だということの方が気にかかる。ついでに、その女性の全体のスタイルが、老舗怪盗漫画の女性怪盗に似ている、ということも。
ふと見ると、ガレキの山のようになっていたはずの、鉄骨恐竜の残骸がない。
まさに最後のひとかけらが、本や家具の残骸の上から、ドライアイスが蒸発するように消えていくところだった。
――同じだ。あの葉っぱのお化けと。
チカゲは血の気が引く思いを味わった。
「あっ、あのっ、こっ、これ……!!」
わずかに青ざめたまま、チカゲは問いかけた。
「ああ……うーんと、どっから説明したらいいかしらねえ」
真珠色の女性が、ふっくらした唇に指を当てた。
「……まずは、あなたに謝らなくちゃいけないんだけどねえ」
ふうと吐息をこぼし、滑らかな頬にすんなりした手を当てた彼女に、チカゲは怪訝な顔を向けた。
「謝る、って……」
「結果として、あなたを囮として使ったこと。助ける予定ではあったけど、それでも一時的に危険にさらしたことには違いないわ……」
囮。
自分は囮に使われたのか。
一体、何のための「囮」なのだ。
そもそも、あの化け物は。
様々な疑問がチカチカ点滅しながらチカゲの頭の中を駆け巡り、なかなか言葉になって出てはこなかった。
「おい、部屋を修復する。百合子さんと宇津は、散らかってないところ……ベッドの上にでもどいててくれ」
スチームパンク少年がそう口にした時、チカゲはますます奇異の思いに囚われた。
『このひと、私のことを知ってる? 誰なの? なんで?』
しげしげと少年を観察するが、無論、記憶にない見た目だった。
「さ、危ないからこっちへ」
百合子さんと呼ばれた女性に引っ張られ、チカゲは有無を言うことも許されずに、部屋の片隅にあるシングルベッドに飛び乗った。百合子は膝立ちで隅に上がり込む。ごついブーツで布団を汚さぬ配慮だろう。
訳も分からず従った――というか、反抗する気力も湧いてこない――チカゲのすぐ目の前で、スチームパンク少年が胸の前のアンティークらしいコンパスに片手の指を当てた。もう片方の手を、指揮するようにぐいと持ち上げる。
「戻せ」
呪文は、たったそれだけだった。
まるで時間を逆戻しにしたかのように、砕けたガラスが、破れた本が、粉砕された家具が、元の姿に戻っていった。
ガラスは歪みを元通りに修正したサッシのアルミ枠に嵌まって割れ目も見えず、本は元のようにきちんとページも装丁も表紙も整い、端正な形を取り戻した本棚に、元の並び順で収まった。ボロと化していた気に入りのカーテンもラグマットも、丁寧に手入れされた様子の見える姿へと還っていた。
その間、数秒とかかっていない。
少年の指先一つで、全ては魔法のように行われた。
唖然とするしか、チカゲにはできない。
「あはは。またびっくりさせてごめんね。でも、怪しげなモンじゃないから、私たち」
ころころとした笑い声に隣を見ると、その悩ましい膝の上に置かれたあの大きな銃が目に入った。異星人の置き土産か、超古代文明の遺産のように思える奇怪で魅力的なその造形が。
「あなたたち……一体、何者なんですか……?」
無数の疑問は、ようやくこれだけの問いになった。
「んー。空凪《そらな》が先に名乗った方がスムーズよねえ」
困ったような笑顔で首をかしげる百合子をしげしげ見ていたチカゲの前に、すいっと影が差した。目の前に、スチームパンク少年が仁王立ちしている。
「お前とおんなじ高校の、二年B組、一色空凪《いっしきそらな》だ。お前は俺を知らないだろうがな」
突然言われて、チカゲはきょとんとした。
知らない。
いや、知らない。
誰だ、一色空凪って?
隣のクラス??
「うん、無理もないよ。空凪は学校でも目立たない術使ってるんだから、隣のクラスの子でも知らないって」
くすくすした笑い声に、チカゲは思わず振り返り。
「これなら、雰囲気分かるか」
再び少年の方を振り向いた時には、その姿はがらっと変わっていた。
目鼻立ち自体は、変わっていない……はずだ。
だが、髪も目も日本でごく一般的な黒髪黒目になっており、なにより出で立ちが、ごく普通のカットソーとカーゴパンツになっている。ちょっと風変わりなのは、あの装束の時と同じ、アンティークぽいコンパスが胸にぶら下がっていることだ。
結果として、ちょっと目を引く端正な雰囲気の少年だが、突飛さとは程遠い……という事態になっていた。長身と大き目のきりりとした目が、いささか威圧的に思えるが、全体的に各パーツのバランスがとびきり良い。イケメンの部類に入れるべき見た目だろう。
ぼんやりと、見たことのあるような気はする、程度にはなってきた。
だが、はっきりとは思い出せない。
ちょっと、おかしいな、とは思う。
こういう目立つ子なら、自分に限らず、誰の目も――特に女子の目を――引いて当たり前だ。周りでもっと話題になっていて然るべきだし、隣のクラスなら廊下ですれ違ったり、授業で一緒になったりしてもおかしくないが、全く記憶に残っていないのだ。
「え……と、一色、くん? ご、ごめん、あたし……」
いたたまれなさでもじもじしながら口にすると、目の前の少年は気にするなというように手を振った。
と。
次の瞬間、その全身が一気に元の、スチームパンク衣装に変わっていた。目と髪の色も瞬時に変わる。
瞬き一つの間に起った変化に、チカゲは今度こそ完全に固まった。
「……お前には、色々説明しなきゃならん」
彫像のようになったチカゲの隣、ベッドの縁に、一色空凪はどかりと無遠慮に座り込んだ。
「まず、お前が知るべきことは……お前が『霊性事物』に選ばれた『共鳴者』だってことだ」
意味不明の単語の羅列は、完全に現実感覚を失ったチカゲの頭を素通りしていった。