その15 陀牟羅婆那と紫王

「……何でてめえがここにいるんだ?」

 紫王はすっかり面食らい、思わず尋ねた。

「一体、どこから入って俺たちの先回りを……」

 

「お前はつくづく愚かな小僧だ。全く我が子と思いたくないものだな」

 陀牟羅婆那は、心底からの軽蔑を込めて形の良い鼻を鳴らした。

「『天奏寺の十抜け』と言うからには、出入り口など幾つもあるに決まっておろう。この近くの出入り口を使ったまでだ」

 金色の目が冷たい色を浮かべて瓜二つと言われる息子、紫王を見下ろしていた。

 紫王の目に怪訝の色が宿る。

「……地上で、人間を襲ってる妖怪を始末する指揮を執っていたんじゃねえのかよ?」

 その問いに返って来たのは、心底うんざりするとでも言いたげな、侮蔑の眼差しだった。

「地上の妖怪なら、部下に任せていられる。だが、瑠璃のことは火急だ。もし、霊泉居士が瑠璃の力を手に入れてしまったら、私でも奴を討つのが難しくなろう」

 そして案の定、と陀牟羅婆那は続けた。

「そなたたちは苦戦もいいところだ。これほど時間がかかっては、救出の意味がない。全く、お前の努力や誓いほど、あてにならぬものはないな。いつもながら口だけだ」

 

 紫王は唇を噛んで下を向いた。

 不気味な灯火に照らされた石造りの迷宮で、うすぼんやりした影が足元に落ちている。

 仁、そして清美は、急に出現した主の前に、それぞれのやり方で跪《ひざまず》いていた。

「と、仰いますと、我らにご同行願えるということでございますか。誠に……」

 礼の口上を述べようとした清美を、陀牟羅婆那は手を振って遮る。

「もう良い。そなたらの力では無理と分かった。瑠璃は私が救出する。そなたらは勝手にせよ。帰るなり地上で適当な妖怪の掃除をするなり、好きにするがいい。そなたらの面倒まで見てはおられぬ」

「は、ははぁ……」

 清美は委縮して、鬼の顔を地面すれすれにまで下した。

 仁は言葉もなく、くぅんと鳴いて尻尾を丸めた。

 

 突如、淀んだ大気を穿つ笑い声が響き渡った。

 紫王の哄笑が、殷々と石壁に吸い込まれていく。

 

「……なんだ小僧。悔しくて気が狂ったか」

 陀牟羅婆那が唾でも吐き捨てるかのように口にすると、紫王はぎらっと光る目を父に向けた。

 いや。

 父の形をしたものに。

 

「てめえ。親父じゃねえだろ。化けるなら、もっと上手く化けろや」

 

 憎々し気に言い放たれた言葉に、陀牟羅婆那は勿論、清美も、仁も、ぎょっとして紫王を振り仰いだ。

「し、紫王……?」

「……見た目は上手く誤魔化したみてえだな。一瞬だが騙された。だが、中身が全然違う。親父はそんなこと言わねえよ」

 自信満々、揺るぎない口調で言う紫王を、「陀牟羅婆那」は片眉を上げて見返した。

「……親父は、確かにそんな調子で喋る。情け容赦なくダメ出ししてくるムカつく奴だ。だが、絶対に言わねえことがあるんだよ」

 にやり、と、紫王の笑いが深くなる。

「俺が親父の子でねえとか。心底からの誓いを馬鹿にするとか。俺の面倒を見ねえっていう類のこととか。あのクソオヤジはよ、絶対に言わねえんだ。それ以外で、どんな手厳しいこと言ってても、それだけは言わねえんだよ」

 紫王の視線を受ける陀牟羅婆那の顔は、今や白い紙で作られた面のようだった。

 仁と清美が唖然として顔を見合わせる。

 

「あのクソオヤジにゃあな、信念ってモンがあんだよ。もう、何千年くらいも生きて、阿修羅として戦い続けてきた奴だよ。俺には図り知れねえようなことが、わんさかあったんだろうよ。その中で、楽に流れず残した誓いだよ」

 

 そうだ。

 紫王が頑なに認めようと……いや、意識すらしようとしてこなかったこと。

 それを意識するだけで、自分が絶対に敵わないと納得してしまうようなこと。

 たかだか十数年の平穏無事な人生すら持て余している自分では、想像もできない過酷さを経て、磨かれてきた誇りと信念が、陀牟羅婆那にはあった。

 それは彼が例えどんなに不利になっても手放さない、自らを律する掟。

 

 生み出すことを選んだ我が子を、見捨てない。

 命を懸けた誓いを、それを立てたのがどんな弱者であったとしても、侮辱しない。

 そして紫王の成長のために必要なものを、決して惜しまない。

 

 悔しくて認めてもこれなかった。

 しかし、紫王はそれを知っていた。実は意識していた。

 陀牟羅婆那が、これこれこうだと説明したことは一度もない。しかし、彼の行動そのものは、それらの誓いを雄弁に物語って余りあるものだった。

 

 ……その態度に込められた、愛情も。

 

 認められなかった。

 認めてしまえば、紫王は劣等感故に壊れてしまう。

 気付かないふりをして、突っ張り続けるしかなかった。

 例え、そんなことをしても父親の掌の上と、百も承知だったとしても。

 その「段階」が必要だったのだ。

 

 紫王は、今ならはっきり認識できた。

 地上と地下、離れた父をこの場にいるように意識できた。

 

「……それとよ、もう一つ、決定的なこと言ってやろうか……? 仁」

 急に声をかけられて、仁ははっとした。

「親父の匂いって、澄んだ高原の風みたいな匂いだって、昔言ったよな、お前?」

 仁がはたと目を見開く。

「……こいつから、そんないい匂い、するのか?」

 

 ぎゅわん!!

 と風が渦を巻いた。

 

 えぐり込むように繰り出された三つの拳を、紫王はあっさり避けた。

 

「甘ぇっての。やっぱり親父なんかじゃねー。あいつは、そんなに甘い技なんか出さねえっての」

 あっさり「陀牟羅婆那の姿をしたもの」の脇腹を蹴って後退させてから、紫王はせせら笑った。

 

「おのれ!!」

 我に返った清美が、口から水の糸を吐く。それは陀牟羅婆那の姿をした何かの六臂をあっさり封じた。陀牟羅婆那本人だったら、こんなことはありえない。清美も、見ていた仁も紫王も納得する。

 

「ちょうどいい。さっき、開発しかけの技があるんだ。てめえで試してやるよ、ニセモノ野郎!!!」

 

 再び紫王の拳が光り出した。

 無数の拳閃が花開く。

 星のように、聖なる拳が流れる。

 

 全身を潰され最後に胸に大穴を開けられた「陀牟羅婆那のニセモノ」は、いい加減見慣れた紙人形になって、ひらりと床に舞い落ちた。