ぼんやりと、意識が浮上してきた。
柔らかい薄闇の中に漂うように、あやふやな目覚めの中にいる。
少しすると、瞼越しに薄い光が感じられた。
微かな声が出た。
「……紫王!?」
すぐ側で、優しい声がした。
ああ、あの声だ。
失いかけて取り戻そうとした、あの……
「紫王!!」
その声に導かれるように、紫王は目を開けた。
見覚えのある天井を背景に、愛しいあの美少女が見えた。
「紫王、良かった……」
心底安堵した表情で、瑠璃は微笑む。
紫王も、彼女がいつもの様子なのにほっとした。
瑠璃が手を伸ばす。
白い暖かい手にそっと触れられ、紫王はその手を自分の頬に押し付けた。
暖かい。
無事だったのだ。
自分も、瑠璃も。
「ここは……神楽森城の俺の部屋、か……」
ゆっくり布団の上に、紫王は上体を起こした。
障子に映る木立の影、家具の配置は見覚えがある。
そういえば。
「……瑠璃。制服着てるな。学校行ってたんか。あれから、何日くらい経ってる?」
紫王は混乱気味の記憶をまさぐった。
霊泉居士を倒し、体を引きずるように神楽森城に帰還したのがその日の夜中。
そのまま、両親への報告もそこそこに、自室へ戻って倒れるように眠ったのが、金曜日だから……
「今日は、火曜日。もう夕方だよ。あ、そうだ、何か飲み物と軽い食事、持ってきてもらおうね?」
瑠璃は、背後に控えた鬼女の侍女に、何か飲み物と軽食を、と頼み込んだ。同時に、陀牟羅婆那様と天椿姫様に紫王が目覚めた報告を、と。
「瑠璃」
侍女が部屋を出ると、紫王はぐいと瑠璃を抱き寄せ、腕に力を込めて抱きしめた。
「紫王……」
「瑠璃。無事で良かった」
弾力ある肉体の感触、暖かい匂いを感じて、紫王は胸の奥底が震えるのを感じた。
無事だった。
瑠璃は無事だったのだ。
守り切った。
「……ごめんね、紫王」
「ん? 何がだ、何で謝る?」
「だって……私が間抜けで霊泉居士なんかに捕まったばっかりに、紫王やみんながあんな危ない目に……」
「いや。瑠璃のせいじゃねえ。元はと言えば、俺が自分の実力もわきまえず、瑠璃を街中に連れ出したのがいけねえんだ。俺こそ謝らなきゃいけねえ。ごめんな」
「……ううん、でもそのお陰で、どうやって妖怪としての力を振るえばいいのか、大体分かったよ。怖かったけど、無駄じゃなかった」
「俺もだ。こんなこと言うと瑠璃を踏み台にしたみてえで気が引けるが……なんつうか、あいつと戦って、ようやく自分を冷静に見るって、できるようになった気がする」
紫王と瑠璃は、お互いの顔を見て、ふっと笑った。
「……私たち、もうちょっとでケッコン、するのに、何か未熟者な感じ、するね……」
「……ああ。まだ身に着けなきゃならないことが、いっぱいある……」
「私、紫王と一緒にいたら、すっごく勉強できる気がする……」
「俺もだ。瑠璃のお陰で、分かったこと、沢山あるぜ」
あんなわずかの時間で、自分も瑠璃も、急激に成長したのだなと、紫王は思った。
お互いを見つめ合うことで、それ以外のものも見えてきたのだ。
紫王と瑠璃は、ちょん、と唇を触れ合わせるだけのキスをした。
と、廊下から足音が聞こえてきた。
紫王は布団の上に座りなおし、瑠璃はその横に沿うようにした。
「紫王や。気が付いたかえ。体は大丈夫かや?」
天椿姫が気づかわし気に布団の側に座った。
「ふむ。数日休んだら、妖気は落ち着いたようだな」
紫王と妖気の質が近い陀牟羅婆那はすぐに変化を感じ取ったらしい。息子を見て、うなずいた。
「親父。お袋。心配かけて悪かった」
いつになく素直な紫王に、陀牟羅婆那も天椿姫も、少しばかり異変を感じ取ったようだ。
「いや、みな、無事に戻って来たなら良いのじゃが……」
「そうだ。特に、今回、そなたはよくやった。あの霊泉居士の完全消滅という、我らすらできなかったことを成し遂げたのだから。己を誇って良いぞ」
珍しく、陀牟羅婆那は息子を褒めた。
そうだった、と紫王は思い出す。
父親は厳しかったが、決して感情のままに意地悪いことを言う男ではなかったではないか。成果を上げた時、成長が見られた時、正しい行動をした時、必ず褒めてくれた。
「……親父に、頼みがある」
紫王は、思い切ったように切り出した。
「どのようなことだ。そなたや瑠璃のためになるようなことなら、叶えてやるにやぶさかではないが」
陀牟羅婆那は、いよいよ息子の様子が今までと違うことに注意を向けたようだった。何かあるな、と感じたようだ。
天椿姫、そして瑠璃が、目を見かわした。
「親父。俺を、強くしてくれ。鍛えてほしいんだ」
紫王は、自分からは初めての頼みを口にした。
陀牟羅婆那の目が見開かれる。
「……今回のことで分かった。俺は、今のままじゃ駄目だ。半端もんだ。今回は上手くやれたからいいものの、このまま適当に過ごしてたら、また今回みたいな悪いことを引き寄せちまうかも知れねえ。もっと、力を使いこなさなきゃ危うい」
紫王の金色の目が、瑠璃に注がれた。
「たまたま今回は、瑠璃がさらわれて俺がおびき出されたが……逆になる可能性だってある。搦め手が苦手の俺がヤバイ奴の手に落ちて、瑠璃の方がおびき寄せられるって事態だって、考えられると思う」
多分、今回のことで俺の力のことは妖怪や術師の社会に広がった。
霊泉居士以上のヤバイ奴が、俺か、瑠璃か、両方かを、狙ってくるかも知れない。
「……今まで、親父の気持ちを踏みにじるようなことしておいて、調子いいって分かってる。でも、俺には、親父以外に頼る相手がいねえ」
紫王は肩を落とし、がっくりきた調子で父の慈悲にすがった。
「……今まで、悪かった。謝るから……だから、親父。俺を今よりもっと、強くしてくれ!!」
紫王の目は真剣だった。
ようやく彼は今、守る者のために、己以外のものを見渡すことができるようになったのだ。
父と母から、危険な妖怪や妖術使いの話は散々に聞いていた。
だが、それが自分に牙を剥くなど、実感として感じられなかったのだ。
しかし、今は違う。
瑠璃が狙われた。
そして、瑠璃の話では、実は紫王自身も狙われていたのだという。
子供のまま、繭に閉じこもっていることは、もうできないのだ。
彼は、世界と戦わなければいけない。
戦士の道を歩み始めたのだ。
沈黙が落ちた。
「お前様……」
天椿姫が、何事か考え込んでいる様子の夫にそっと声をかけた。
自分の心臓の音が耳を聾するように感じる瑠璃。
そして、紫王は、判決を待つ囚人のようにうつむいている。
「……とうとう、お前が自分からそれを言い出すようになったか」
陀牟羅婆那が、静かな深い声で嘆息した。
「勿論だ。ずっと前から言っているであろう。私は、そなたを強くするためなら、何でもしてやると。もう忘れてしまったのか」
はっと、紫王が顔を上げた。目が輝く。
「じゃあ……」
「勘所を忘れぬようにな。お前の技を把握するため、明日もう一日学校を休め。軽く組手をして、開眼した技を私に見せろ。それを見て、今週末までに、そなたの訓練内容を考えておいてやる」
陀牟羅婆那は、紫王の頬に、そっと手を伸ばした。
「少し厳しくする。ついてこい。そなたが自分をまた見失わなければ、ついてこれるはずだ」
二組の金色の目の間に、何かが通い合った。
瑠璃は父子を見、その傍らで長年の棘がほぐれて胸がいっぱいの様子の天椿姫を見た。
強大な魔物が守っていた秘密の門を、紫王は自分の手で開いたのだと、瑠璃は理解した。
その門を開けたのは紫王だが、それをくぐるのは、瑠璃自身も、天椿姫も、そして陀牟羅婆那もなのだと。
瑠璃は、その向こうに光を見た。
この門から続く道は、どこへ自分たちを導くのだろうか。
「あやし皇子乱戦記」 【完】