「……貴様が、『マリー=アンジュ』を奪い取った……という訳か?」
眼下の怪物をはるかに眺め、アマネは目の前に浮かぶ吸血鬼に詰問する。
「まあ……そういうことになるのでしょうか。いいじゃありませんか、そんなことは。どうせ、罪を清算してもらったなら、あなた方には何も関係なくなるんですから」
いつの間にか、闇路の青白い手の中に、まさに夜を固めたような、黒い刀身の太刀が出現している。
ぬるりと妖美に輝くその刃は、そこにあるだけで、アマネたちの精神を蝕むような、異様な気配を発している。
「あらあら、素敵な彼。そんな物騒なものを出す必要がどこにあるの? どなたかとお間違えじゃないのかしら?」
こんな状況でも、気だるげで色っぽい口調を崩さず、エヴリーヌは問いかける。
婀娜っぽく首を傾げて、ぐらりとしてしまうような風情である。
「いえ、間違いありませんよ、あなた方は、『マリー=アンジュ』を追ってきた。何よりの証拠です」
吸血鬼が端正な唇を、サメのように吊り上げた……と確認する間もなく。
黒い衝撃が、アマネとエヴリーヌを襲う。
咄嗟に上下に飛び離れることができたのは、奇蹟のようなものだ。
闇路が、黒い太刀を、ほぼ水平に一閃させたのだと気付いたのは、空間を扇状に広がる黒の波紋が、遠く飛び去ってから。
「ええ!? ちょっとぉ、なんなの、あんまりだわ!!」
エヴリーヌは恐怖よりも怒りよりも、相手の問答無用の好戦性に呆れかえる。
この吸血鬼は「殺る気」だ。
最初から、そのつもりで待ち構えていたのか。
「貴様、我らが邪魔という訳か。これだけのことをしでかしておいて、更に自らお出ましとは、念入りなことだな?」
アマネの声がどこか苦しそうに聞こえるのに胆を冷やして、エヴリーヌは顔を上げる。
華麗な姫天狗の装束の袴が切れ、真っ白な脚から血が垂れている。
どうも、傷口の色がおかしいような。
「体が真っ二つにならなかっただけでも、大したものだ。流石に、『彼』を葬っただけのことはある」
獰猛な笑みを訝しみ、エヴリーヌもアマネもちらと視線を交わす。
「ちょっと!? あなた、何を言ってるの? 本当に誰かと勘違いなさってるんじゃなくて?」
みるみるうちに青くなるアマネの顔色が心配で、エヴリーヌは言葉を選びながら、闇路を牽制する。
一体、この男は、自分たちを誰ととっちがえているのか。
「マリー=アンジュ」をこの男が盗み出したなら、今彼が口にした内容が、その動機と関係あるのだろうか。
ただ、今現在、はっきりわかっているのは、自分たちには、目の前の吸血鬼について、何の情報もない、ということである。
「弱いフリはおやめなさい。あなた方がそんな惰弱なことじゃ、殺された『彼』が浮かばれないじゃありませんか」
闇路が、狂暴な笑みをたたえたまま、エヴリーヌを睨む。
眼鏡の奥の冷たく底光りする目に睨み据えられた途端、エヴリーヌは肉体に異様な違和感を感じる。
はた、と自分の右手に目を落とす。
手指が、いつの間にか変形を始めていた。
まるで手入れされていない茨の茂みのように、手指全体が異様に湾曲しながら細長く伸び、五本どころか十数本ものワイヤーのような形に変化しつつある。
骨や腱、肉が引っ張られる異様な感覚と激痛に、エヴリーヌは悲鳴を上げる。
ぞっとした。
母の母国にも多くいる吸血鬼と、目の前の種族は、根底が共通しながらも、性質が大きく異なるのを知らなかったのだ。
まさか、こんな能力のある「吸血鬼」が存在するとは。
いつの間にか、おぞましい幻のように、吸血鬼が太刀を構えて肉迫し……
轟雷のような音がした。
見ると、衝撃波の直撃を受けた吸血鬼が、地上に真っ逆さまに墜落していくところだ。
頭上を振り仰ぐ。
死人のような顔色になりながらも、アマネが扇を振り抜いたところだ。
脚の傷口から、もはや血というより黒い汚液を滴らせながらも、アマネはエヴリーヌに滑り寄り、肩をひっつかむ。
「これではまずい、出直すぞ!!」
目の前の空間を、無数の真紅の羽毛が埋め尽くし、乱舞する。
一瞬。
高い空から、アマネとエヴリーヌの姿は消える。
あとははらはらと、名残のように、真紅に輝く羽が空に散って行くだけ。
「……逃げられましたか」
あやうく地面に激突しそうな高度まで叩き落された闇路が戻って来た時には、すでに彼が獲物と定めた二人の人外の姿は、どこにも見えない。
◇ ◆ ◇
「これでよし。ちゃんと動くか? おかしな感じはないか?」
アマネに問いただされて、エヴリーヌは恐る恐る、右手の指を数を数えるように動かしてみた。
ワイヤーの束のように、無残に変形していた右手は、すでに元の見慣れた優美な手指の形に戻っている。
動かしてみても、違和感は特にない。
エヴリーヌはほっと安堵のため息をついた。
正直今までは生きた心地がしなかったのである。
そこは、さほど大きくもない、古びた神社である。
都内ではあるが、有名な山地を抱えた、その山裾の一角に置き去られたような神社。
最低限の手入れは近隣住人によってされているようであるが、境内は伸び放題の鎮守の森の枝葉で暗く、人気《ひとけ》はない。
殷々と響く、鳥の声が、背後の緑の連なりに消えていく。
アマネ自身が負った、病毒をもたらす刀傷も、エヴリーヌが負った、異様な業病の呪いも、今は消え失せている。
アマネがふところに持っていた、天狗秘伝の薬のお陰である。
日本原産吸血鬼の、疫神としての力を退けるには、天狗の持つ様々な術法の中でも、秘伝に属する術をもとめなければいけなかったのだ。
「あの人が、『マリー=アンジュ』を強奪した張本人……。とんでもないわ。どうしたらいいのよ、あんな人」
あれじゃ、あの怪物を倒すことすらできないわよ!?
エヴリーヌは拝殿下の石段に腰を下ろし、天を仰ぐ。
色んな人外に出くわしてきたが、あれは規格外だ。
「日本原産吸血鬼という連中は、ああいう疫神としての力を持っていて、なかなか厄介ではあるのだが……『マリー=アンジュ』で更に自分を強化している疑いがあるな。どうしたものか」
アマネは渋い顔でため息をつく。
「……あの怪物だって、ほっとく訳にいかないわよねえ。東京中の全部の人間が食べられてしまうわよ」
実際、そうなるのも時間の問題だと、エヴリーヌははっきりと認識している。
アマネが、一段上の石段に腰を下ろし、枝葉でまだらの天を仰いだ。
「……策がいるな」
と。
がさり、という無造作な足音が、参道の向こう、鳥居の影から響いたのだった。